幼馴染A子がDV夫から逃げてきた。訪ねきた893を見たら私の

まだ20代前半の頃のはなし

私は上京して一人暮らしをしていた。
そこへ幼馴染のA子がアポなしでやってきた。
久しぶりに会うA子にすごくビックリした。
結婚してA子も東京にいるのは知ってた。
まだ携帯もネットも普及していない時代だったから、
年賀状で近況を知らせ合うのが当たり前。

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A子の顔は酷くて、
こんな言葉は当時はなかったけど、DVだと察しはついた。

話をきくと、A旦那は賭け事で借金がかさみ、
A子に店へ行くように命じた。
A子拒否。怒り狂った夫にDVされ、
夫の目を盗んで着の身着のまま逃げ出してきた。

年末の寒い中、薄っぺらな上着を脱いだA子は
ほつれてポロポロのセーターに膝の抜けたジーンズ
穴の開いたよれよれのスニーカー、
靴下も履いてなかった。

手にしているのは私の年賀状だけ、
お金がなくて半日歩いてやって来たそう。
庇ってやろうにも、
生活の面倒見てあげるほど私もお金を持ってない。
年賀状等もすでに何通か送っているので、
私の住所がばれるのも時間の問題。

私の母が義父にDVを受けていたのに
警察が何もしてくれなかったし
都会の警察は違うかもしれないけれど、
警察に呼び出された義父が帰宅してから
母にさらにDVしていたのも見ていたので、
警察もダメだと思った。

私も東京に知り合いがいるわけでもなく、
同僚とはこんな修羅場に巻き込む程親しくない。

A子にしても、助けてくれる知り合いがいるなら
私のところになんか来ない。
とりあえずA子を風呂に入れて私の服を着せて、
二人で途方に暮れていた。
A子はいくらかお金を貸してほしい、
きっと返すから、と言って泣いた。
現実的にそれしかない気もした。

その時、ピンポンが鳴った。
私たちはドキドキして顔を見合わせ、
私は玄関にまさに忍び足で向かい、
ドアスコープで外を見た。
玄関の前にいた男と目があった。

ビックリして飛びのき、
声が漏れないように手で覆って部屋に戻った。
私は無言のままA子の手を握って、首を振った。

私はめまぐるしく考えた。逃げなきゃ、と思った。
アパートは二階だし、でもベランダからどうにか…
とベランダのある寝室に使っている部屋の方を見た時、
心底驚いた。

心臓が一瞬止まって血の気が引いて、
次に顔がかーっと熱くなった。
閉めてあったふすまが開いていて、男が二人立ってた。
男たちがニヤリとして、一人が玄関に向かった。
玄関の開く音がして、男たちが数人、入ってきた。
妙なもんで、ああ、土足のままだよ、なんて思った。

男の一人が、奥さん、逃げたらだめだよ、
旦那の借金はちゃんと返してもらうよ、
とかなんとか言ってた。

気づいたら私とA子はへたり込んで、
両手をしっかり握り合ってた。
この際だから、お友達にも協力してもらう?
なんて、誰かが言った。
私は、男たちの顔を順番に見て、
一番偉そうな男の顔を見て、あれ?と思った

ぴた、って思考が止まって、あれ、誰だっけって思った。
向こうも私の顔を見て、何か思い出したみたいで、
隣の男に何か言って、私の出したハガキを見て、
また何か言って、全員ぞろぞろと部屋を出て行った。

私とA子は、へたり込んだまま茫然としていたんだけど、
私はさっきの男が誰だったか、一生懸命考えていた。
母の男は次々変わって、年も職業もいろいろだったけど、
まあどれもろくでなしだった。

でも母の男たちの年齢よりは、かなり若かった。
まだ30代中くらい。
それにろくでなしたちは、あんな幹部的な人ではなく、
チンピラ程度の下っ端ばっかり。

私の実父も、いわいる「鉄砲玉」かなんかで、
刑務所に入っている間に生まれた。
祖父母が認知すると前科者の娘になってしまうと、
わざわざ認知しなかったような男。

やっと動けるくらいに落ち着いてから、
私は玄関の鍵をかけに行って、
なんとなく、ドアを開けたらその男が廊下に立ってた。
ビックリしたけど、怖くなかった。

顔をじっと見てたら、男が玄関に入ってきた。
男は玄関からは上がらなかった。
台所には足跡がいっぱいあって、
男はそれを見て、眉をぴくって動かした。
変なもんで、その眉毛で、記憶がぱーっとよみがえった。
男は、義兄でした。

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義兄と言っても、
幼稚園から小学校の低学年くらいの間、
母と暮らしていた男の息子で、
私も同じ苗字を名乗っていた気がするので、
たぶん義兄だったんだと思う。
当時義兄は高校生くらいで、原色のTシャツと、ボンタン?
ふっとい学生服ズボンの印象がある。
学ランも長くて、膝くらいまであった。

義兄はとても良くしてくれました。
母は私の世話なんか全然しなかったので
一緒に暮らしていた間、義兄がご飯作ってくれました。
よく義兄の彼女が来ていて、ヤンキーだけど優しかった。
妹さんのお古だけどって、かわいい服や、
可愛い文具なんかもくれた。
私の人生の中で、あの頃が一番幸せだったように思う。

その後、施設に入ったけど、
しばらくの間、義兄はよく面会に来てくれた。
私は母に引き取られたり
施設に戻ったりを繰り返していたので、
義兄とは連絡がとれなくなった。
中学を卒業する頃、
母が酔っぱらって車道で寝ていて車にひかれてしんだ。
それで東京へ出てきた。

A子は中学時代、
そんな私にでも仲良くしてくれた唯一の友達だった。
でも世の中甘くないよね。
中卒で保証人もいないような女を雇ってくれるところなんかない。
結局、昼は超底辺工場で働いて、夜は店。
そのうち、定時制の高校を出て、
昼は小さい会社の事務に雇ってもらった。
当然生活出来ないので店も続けてた。

義兄に「元気だったか」と聞かれたので、
うなずいたら、「そうか」と一言言って、
頭をポンポンされて、そのまま帰って行った。

結局、義兄に会ったのはこれが最後。
数日後、弁護士がやってきて、
A子の夫の借金はA子が返済する義務は
一切ありませんと言われた。
A子には、就職先と住まいが用意されてた。
弁護士に義兄の連絡先を聞いたけど、教えてくれなかった。

A子を脅しに来たやくざ者たちが
どこの人たちかもわからないし、私にとって「おにいちゃん」
でしかなかった義兄の名前もわからない。
私は勤め先の息子と結婚した。

結婚した時、弁護士さんが、
義兄からの結婚祝いを届けてくれた。
それっきり音沙汰ない。
夫や義父母にはある程度は話してあるけど、
義兄の事は言っていない。
A子も今はまともな人と結婚して幸せに暮らしている。

なんで今頃この話を投下したかというと、
A子がおばあちゃんになったと連絡が来たからです。
うちの子たちはまだ高校生なんだけど。

私の生活はあの後も前もあまり変わりなかったので、
夢だったんじゃないかと思う事もある。
自分の子供時代は抜け落ちている部分がかなりあって、
子供時代から妄想癖があるので、
現実と妄想の区別がとても曖昧なんだよね。

でも義兄が食べさせてくれた、
でっかいパフェの記憶は妄想じゃないと思うんだ。
最近、更年期で涙もろくてさ。義兄に会いたいと、よく思う。
毎年、弁護士さん宛てに家族写真入りの年賀状を送っている。
義兄に届いているといいなぁ。

皆さんが話題にしてくれて、
義兄に同情してくれてました。
ありがとうございます。
でもね、何人かから指摘されていたんだけど、
義兄は同情に値する人ではないと思います。
私にとっては本当に優しい大切な兄だけれど、
あの時私がいなかったら、義兄が来なかったら
A子と私の運命はまるで違うものになっていたはずです。

義兄が私に連絡を取らないのも、
私が義兄を探さないのも、
今だに兄の本名も知らないのも
義兄と私の関係が公になったら
自営業の我が家にとっては致命的だからです。
年賀状を弁護士さんに送っているのも、
A子に止めた方がいいと言われました。
A子にしてみれば、義兄は神様みたいな人です。
元夫から解放してくれただけでなく、
再起のチャンスもくれました。

足を向けて寝れないよ、とA子が自分で言ってました。
それでも、家族の為に止めた方がいいと忠告してくれたんです。

でも、忘れられないんですよ。
赤いソーセージが入っただけの
ケチャップスパゲッティや、
こげこげのチャーハンを義兄と
美味しいねって笑って食べました。
義兄が作ってくれたゴツゴツの石ころみたいな
おにぎりのお弁当を持って遠足に行った。
タコウインナーと卵焼きがアルミに包んで入れてあった。
塩水に浸してない茶色いリンゴもあった。

運動会の時には義兄の彼女が
お弁当を作ってきてくれて3人で食べました。
どっちのお弁当も、本当に美味しかったんですよ。

今は鮮明に思い出したけど、義兄と再会した時、
私は義兄の思い出の何もかも、全部忘れてた。
結婚して、お弁当作ったりしてると、
ぽつぽつ思い出すの。

思い出す度に本当に切なくて、
あの後の義兄の人生はどんなだったのだろうと考える。
一緒に暮らしている頃から、
兄はとても荒れていました。往来で喧嘩を始めたり、
いったん火が付くと誰彼かまわずなぐったり。
でも、私にはいつでもとても優しかった。
私の中では、義兄はヒーローでした。
誰より強くて、私を助けてくれる。

たぶん世の中にとっては
義兄は厄介者以外の何物でもないのだと思う。
でも、会いたいんです。
わけもなく泣きたくなるのは、
きっと更年期のせいですね。

子供時代、妄想をして現実逃避していた癖が抜けなくて、
いろいろ考え過ぎちゃうんですよね。

これで最後にします。
おばさんの泣き言に
おつきあいくださって
ありがとうございました。

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