あの忌まわしい出来事が、
この季節が来ると思い出します。
私は専門学校へ通っていた時、
夏美という女性知り合いました。
会った瞬間、運命的なものを感じ、猛アプローチを掛け、
彼女も笑顔で付き合うことを承諾しました。
お互い就職して3年の社会人を経験し、結婚をしました。
夏美と話し合い、暫くはお互いに仕事を続け、
マイホーム資金を貯め、家族を作り、幸せな家庭を築く。。
そんな人生プランを立て、
目標に向かってお互い励まし助け合い、
仕事に勤しむ毎日を送っていました。
そんなある日、私は業務で、
隣町の営業所に社有車で出かけた時のことです。
思ったより早く業務を終えたので、
気分転換も兼ね、遠回りの山沿いの道を選び、
帰途につきました。
その道は雑誌でも紹介されており、
新緑の回廊をちょっとしたドライブ気分で
気持ち良く車を走らせていました。
路肩に工事予告の標識が置かれており、
交通警備員が赤い旗を振っているのに気付き、
車を減速させ、停車しました。
路肩の雑草を伐採しているようで、
片側規制されており、
対向車が数台走って来ました。
すると、私の車と同じ車種、
同じ色の車が通り過ぎ、
思わずドアミラーに目を遣り、
過ぎ去っていく様子を確認しました。
車の後部に、私が付けたオプションのパーツと
同じものがついていて、
ナンバーは鏡なので逆に映り、
確認までは出来ませんでしたが、
同じナンバーだったように思えました。
私は思わず車を転回させ、後を追いました。
しかし、運悪く、伐採した小枝や雑草を
満載した工事用のトラックの後ろに付いてしまい、
引き離され、あの車のナンバーと、誰が乗っているのか、
何人乗っているのか分かりませんでした。
遠巻きに途中の分岐を左に曲がって行くのを確認し、
後を追いましたがいくら車を走らせても、
あの車を見つけることは出来ず、見失いました。
ただ、分岐路から少し走ったところに
宿泊施設があり、状況的に、
そこに入った可能性が高いのは分かりました。
私は、あの車が出て来るのを待って、
確認をしたかったのですが、
さすがにそこまでの時間は無く、
もやもやした気持ちで帰途につきました。
業務を終え、アパートへ帰ると、
いつもと変わらず夏美が先に帰っており、
部屋には電気が点き、
いつもと変わらず私の車が止まっており、
私が買って付けたオプションのパーツを暫く眺めた後、
部屋へと帰ると、いつもと変わらず夏美は
夕食の準備をしていました。
いつもの日常風景。
何か、私だけが別の世界で居たような錯覚を感じました。
いつもと何ら変わることの無い夏美と話しているうちに、
同じ車種で同じパーツ、似たようなナンバーの車は
いくらでも走っている。あの時見た車は違う。
そう思うようになりました。
数か月が経ち、車のことなど忘れかけていた休日に、
私は夏美と車で買い物に出かけました。
買い物を済ませ、駐車場まで帰って来たところで、
夏美は買い忘れたものがあると言い、
店舗へと戻って行きました。
私はそのまま車へ戻り、
時間潰しに車の中の片づけを始めました。
読んでしまった雑誌をごみ箱に捨てようと纏め、
煙草の吸殻が溜まっていたので、
吸い殻入れを取り出し、ビニール袋に移しました。
吸い殻入れを戻そうとしていた時、
奥のほうに一本だけ煙草が
引っかかっているのに気が付き、
指で摘み取り出しました。
その吸い殻は、
私が吸っていたのとは違う銘柄で、
その時、数か月前の、私の車とよく似た車と
すれ違った出来事を思い出しました。
私は、雑誌と吸殻を捨て車に戻り、
暫くしていつもと変わらない夏美が
戻って来ました。
いくら思い返して見ても、
裏切りなどをしている素振りなど全く無く、
裏切りなどする女性でも無いし、そう信じている。
しかし、疑念は消えませんでした。
その日から、私の車の距離計を確認して
メモを取り、出勤することにしました。
統計を取り、カレンダーと照らし合わせると、
多少のばらつきはあったものの、
夏美が仕事だと言っていた祝祭日を中心に、
不自然に走行距離が伸びていることが分かりました。
私は、その時に夏美に問い質しても良かったのですが、
もし、何かの間違いか誤解であった場合、
逆に、私が信頼を失い、後々まで禍根を
残すことになるかも知れない。
そう思い、以前、親族の縁談で、
調査会社を使った話を思い出し、
結婚前の私の貯金を切り崩し、
その調査会社で次の祝日前後に絞って、
夏美の行動調査をお願いしました。
数週間後、調査結果が纏まったとの連絡があり、
事務所へ赴きました。
応接室に通され、暫くすると、
対応して頂いた黒縁眼鏡の調査員の男性が
ファイルを持って現れました。
ソファーに座り、ファイルを机に置き、
「落ち着いて聞いて下さい。
奥様は、お勤め先の方と交際をされています。」
私は、激しい衝撃を受けました。
あんなに愛していた夏美が、
あんなに尽くしてくれていた夏美が、
何食わぬ顔で、私を裏切っていたのです。
何度も何度も何度も、
男性の言葉が私の頭の中を駆け巡りました。
その時、私の頭の中で、
突然テレビの電源が落ちるように、
「ブツッ」と音を立て、意識が飛びました。
男性からの呼びかけで意識を取り戻した時、
私の感情はしんでしまっていました。
何と表現すれば良いのか、私の体から、
半ば魂が抜け出てしまったような、
自分の体が自分で無いような、
「ぼやぁ」とした世界に変わっていました。
私は、簡潔に書かれた、
夏美が勤務先の既婚の男を私の車に乗せる様子や、
男の通勤ルートの途中で、車から降ろす様子、
夏美が、アパートに帰って、
車を停める様子の写真が纏められたファイルを、
説明を受けながら目を通し、
一部始終が撮られたテープと、原本のコピーを渡されました。
私は、男性にお礼を言い、残りの料金を払い、
ファイルとテープは処分をお願いし、
事務所を後にしました。
男性が私に何かを言っていましたが、
全く耳に入らず、アパートへ帰りました。
そこには、いつもと変わらない笑顔の夏美、
いつもと変わらない団らん、
「ぼやぁ」とした世界の中で、
この生活を続けて行こうと思いました。
次の年の桜の季節、
私は、夏美と桜の名所のお寺へ花見に行きました。
お寺の門で二人そろってお辞儀をし、
手を清め、本堂でお参りをし、
そして満開に咲き誇る樹齢数百年という、
大きな桜の美しさに目を奪われていた時のことです。
若い男性が面白半分で、
思いっきり鐘をついたのか、
体の芯まで響くほど大きな音がしました。
その衝撃が、私の心が息を吹き返す
きっかけになったのでしょうか。
私と同じように驚いて、
私の手を握る夏美を見て、
「この女が何故未だ私の傍に?」
激しい憎悪が湧いて来るのを感じました。
その日から、私の中でぼやぁっとした世界に
変わりはなかったものの、
もう一度証拠を得ようと、
あの調査会社へと足を運んでいました。
応接室に通され、
黒縁眼鏡の男性が入って来て、
私を見るなり、
「ファイルの件ですね?
また来て頂けると思っていました。」
その後は、協力頂いた方に
迷惑がかかるかも知れないので
詳しくは書けませんが、
送り主が分からぬよう偽装工作の上、
証拠を関係各所へばら撒きました。
相手の奥様がアパートへ乗り込み、
動転した夏美は私の車で失踪。
数日後、巡回中の警官が、山道で車を停め、
その傍らで蹲っている夏美を発見し、保護しました。
私は引き取りを拒否し、
夏美の実家に連絡をし、義両親が引き取りました。
その後の話し合いの席で、
私は感情を爆発させ、離婚届に署名をさせました。
その後、夏美がアパートまで来ているのか、
郵便受けに手紙が入っていることがありましたが、
全て読まずに燃やしました。
アパートを引き払おうと荷物を纏め、
引っ越し業者が荷物を搬出していたその日、
夏美がアパートへと来ました。
泣き叫び、謝罪を繰り返し、
荷物の搬出を止めようとする夏美を見ても、
全く心が動きませんでした。
動揺する引っ越し業者に、
搬出の継続を指示しました。
搬出が終わり、
空っぽになったアパートの真ん中で、
呆然として座り込む夏美を無視し、
管理者に鍵を返し、部屋を後にしました。
あの日から、かなりの年月が経ち、
歳を重ねました。
私の心が元に戻っているのか、
良く分かりませんが、生きています。
男とは、お互いに配偶者がいるのだから、
一緒になることなど有り得ない。
などと思い込み、
善悪の境界がおかしくなってしまっていた。
そう言っておりました。
男の奥様に、アパートに乗り込まれ、
証拠写真を見せられ、
「夫に正直に打ち明け、今後のことを考えるように。」
そう言われたところで初めて、
取り返しのつかないことをしていた実感が
湧いたとのことです。
信じられない話です。
夏美は会社から退職勧告を出され、
心身共に衰弱していたのと距離の都合で、
変な話ですが、私と両親が夏美の実家に出向き、
同僚の男を奥様同伴で呼びつけ、
話し合いの席を設けました。
交際開始の時期が、
夏美の後に申告させた男の時期より
かなり短かった時点で、怒りが一気に爆発し、
双方の両親が居るのにも関わらず、
憔悴し切っている夏美を
両親に止められるまで罵倒をし続けました。
慰謝料は、男に顛末書を書かせ署名捺印させ、、
奥様は離婚しか考えられない。
そう言っておりましたし、
育ち盛りの息子さんが居ることも考え、
慰謝料は100万で手を打ちました。
結局のところ、男が離婚したのか
職場で処分が下されたのかは分かりませんが、
会社に知れ渡っているので、
唯では済んでないと思います。
あの女の金など欲しくない。
その気持ちが強かったので、
顛末書と離婚届を書かせただけで、
本人からは一円も取っていません。
後日、夏美の荷物を引き取りに来た義両親から、
改めて謝罪され、気持ちとしてお金の入った
封筒を渡されそうになり、固辞しましたが、
どうしてもということで、根負けし、
封筒の中から束を一つだけ頂き、
後はお返ししました。
夏美も同僚の男も、
「気が付いた時にはそうなっていた。」
「何故そうなったのか良く分からない。」
そう言っておりました。
これは私の推測に過ぎませんが、
同僚の男も早くに奥様と結婚したとのことで、
おっしゃる通り、発覚すると取り返しのつかない、
遊び、割り切った関係、だったのではないのでしょうか。
空前の好景気が終焉し、
不良債権にまみれ、社会が大不況の混乱に突入した頃です。
あの頃は先行きに不安があったので、
当分は二馬力で働き、お金を貯め、
生活の安定を優先したのが、
あの出来事の一因となったのかもしれません。
一目で、妻と私の特徴を受け継いだと分かる、
高校生と中学生になる子供がいます。
定年は、まだ先です。
私は、人のことなど全く考えていない、
軽い気持ちの共犯だった。
そう思っています。
18以降、付き合った男は
一人だけで20代前半で結婚して、仕事仕事の毎日。
同じような人生歩んでいる方はいくらでも居るし、
裏切りなどしない人が大半でしょうが、
飽きたんでしょうね。
この時期は過ごし易く、
爽やかな季節にも関わらず、
一人でいる時に、ふと思い出します。
売れ残り、居座りと自嘲する、
少し年上の、元同僚の女性と再婚しました。
女性不信に陥り、
再婚を躊躇する私に賭けたのでしょうか。
文句も言わず、信じて待ってくれました。
私の生活が荒んでいると聞いたらしく、
引っ越し先のアパートへ、
差し入れに訪ねて来たのがきっかけです。
あんなに幼かった生意気な子供たちも、
気が付けば、あとわずか数年で大人になります。
あと少し。
頑張ろうという気持ちの反面、
寂しい気持ちにもなりますね。