医者「落ち着いて聞いてください。白血病です。」

大学受験が終わり、新しい環境に慣れながら
一年目は真面目に授業に出席していた。

友達は少なかったけど部活は高校のそれとは比にならないほどハードで、
部活とバイトの日々で授業中に寝たり、遅刻することも増えていった。
段々大学に行きたい理由も薄れ、将来のために一応卒業しないとぐらいの気持ちで
大学に通っていた俺は部活と遊びに明け暮れて、
次第に授業に出る日が少なくなった。

部活が終わっては彼女の家に泊まり、
明くる日またそのまま部活に行く、といった感じで
ほとんど家に帰らない、帰るのはバイトのある日だけみたいな生活を
送っていた。

大学生になって2回目の夏は熾烈なもので、
暑さと部活の大変さ、恋人に対する気遣いで心身ともに疲弊していた。
そんな忙しい青春を謳歌していたある日、喉に違和感があることに気が付いた。
楽天家な俺はのど飴舐めてれば治るだろうぐらいの気持ちで、
病院へは行かず、部活と遊びに熱中していた。

それから二日後、バイト中に吐き気とともに
意識がだんだん遠のいていく感覚に陥り、
あわててトイレに駆け込んだ。

これまでの人生で俺は超健康優良児であったため、
今まで経験したことのないこの感覚にはさすがにビビった。
店長には言わなかったが、あまりにも顔色が悪いからと早退させられた。
家に帰って熱を測ったら38度弱あったが、
ここでも楽天家の俺は日頃の疲れだと病気の可能性を一蹴し、
休むことにした。

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バイトを早退した日から三日後、とうとう熱が39度を超えた。
しかし目前に部活の遠征を控えていたし、
練習で忙しい俺は病院に行く暇もないまま、
世間はお盆休みに突入し、完全に病院に行く機会を逃した。
遠征先でも熱は下がることはなく、むしろ上がり、
終いには40度まで達することもあった。

が、チームに迷惑をかけるわけにはいかず、
試合の日はユンケルとバファリンを飲み、気合で出場した。

遠征は無事に終了したが、帰ってからも部活と試合は続き、
遠征から帰還した三日後、ついに自宅で倒れて病院に運ばれた。
搬送されてすぐ血液検査を何度もされた。
可愛い看護師さんに優しい言葉をかけてもらいながらも、
俺はいつ帰れるんだろうとか
次の日も練習があるのにとか考えて不安になっていた。

血液検査の結果、異常に血が濃く(?)て正確なデータが取れなかったのと、
とりあえず夜も遅いし一晩病院で過ごすことになった。
このときすでに、喉の腫れと粘膜障害みたいなので物が飲み込めず、
食べ物も飲み物も口にしてなかったから体重が夏前から4キロほど落ちていた。

不安としんどさで寝付けないまま次の朝を迎え、
どうしようもないので部活仲間には休む旨を連絡し、
看護師さんの指示で医者の診断結果を待った。

両親が買ってきてくれたギリギリ飲めそうな
ウイダーのようなものを飲んでいると、
重い雰囲気を湛えた医者が二人病室に入って来てこう告げた。

「落ち着いて聞いてください。白血病です。」

このときまで白血病がどんな病気か知らなかった。
妙に落ち着いていた俺は泣いている母親の横で病気について調べ、
ようやくいろいろ合点がいった。

白血病は、血中の白血球が異常に増殖し、
血液が機能しなくなる病気だと知った。
思えば入院前は、二階の自室に行くのに階段を昇るだけでも
5分はゼェゼェハァハァしてた(ヘモグロビン濃度の低下)し、
のどの痛みが全く引かなかった(血小板の減少)。
主治医の先生によると、運ばれたときはもうギリギリで、
あと一日搬送が遅かったら死んでいたそうです。こわE

幾ばくも余裕がない状況らしく、通常ではあり得ないが、
入院の次の日から無菌室に入れられて抗がん剤治療が始まった。
抗がん剤といえば繰り返し嘔吐し、極限まで追いつめられるイメージがあったから
本当に憂鬱だったけど、始まってみるとそんなことはなく
多少気分悪いな〜ぐらいの日が数日続き、
尿と一緒に体から抗がん剤が抜けてしまえば、
あとは熱との戦いだった。

ちなみに無菌室は身内以外面会謝絶なんだけど、
先生の計らいで彼女は面会可能にしてくれた。
彼女は「私も出来ることはなんでもするから、一緒に頑張ろう」
と言ってくれ、本当に感謝した。彼女とのやりとりは心の支えだった。

無菌室に入り10日ほどすると、
喉の腫れがすっと引き、会話や飲み食いができるようになった。
好きだったカップ焼きそばは、久々に食べると味覚障害のせいで
味がほとんどせず、半分も食べれなかった。
そしてだんだん味覚も戻りだし、体調が安定し始めたとき、
新たな壁にぶち当たった。

抗がん剤を始めて一か月ぐらいは悪い白血球いい白血球ともに死滅するから、
ほかの感染症を起こしやすくなって熱も出やすいんだ。
で、38度いかないぐらいの熱が続いていたある日、
いきなりものすごい寒気に襲われて全身が恐ろしく震えた。
わけもわからずとりあえずトイレに駆け込み(無菌室は室内にトイレもある)、
3分ぐらい震えていたんだけど、全然治まらなくて看護師さに助けを求めた。
看護師さんに抱えられながらベッドに戻って
震えが治まったころに熱を測ると40度もでていて心底びびった。
たぶん看護師さんもビビってたと思う。
で、とりあえず熱を下げる薬を飲んでその日を終えたのね。

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次の日の朝、熱は下がっていたけどシーツは汗でびちょびちょ。
看護師さんに交換してもらって、その日は熱の原因を突き止めるために
CT検査とか、主治医の触診があった。が、その夜また強烈な寒気に襲われて
40度を超える熱が出て、ご飯どころではなく、その日はもう寝る事にした。

次の日もその次の日も強烈な寒気は6時間に1度ぐらいの感覚で来るようになり、
その都度40度の熱がでては薬で下げる、の繰り返しが1週間ほど続いた。
最初は主治医もいろいろ弊害があるからステロイド薬の投与を躊躇ってたんだけど、
熱が41度を超えたあたりでもう使わざるを得なくなった。
使うと熱はすっと引き、元の微熱ぐらいの体温に戻った。
検査をしても悪いところが見つからず、
熱の原因がわからなかったというのが本当に怖かった

とりあえず原因不明の高熱から解放され、
徐々に白血球の好中球も増えだして、やっと無菌室解除になった。
無菌室に閉じこもりっぱなしだったから、院内を自由に歩けて楽しかったけど、
同時に筋肉がだいぶ衰えててすごく大変だった。
それから2週間ぐらいして、主治医から外泊の許可が下りた。
マスクを2枚重ねたり、外でも食べるものには気を遣いながら、
彼女と久しぶりに遊んだりもした。
骨髄移植までの抗がん剤治療は、1クール目と同じのが4クール続いただけで
特にドラマもなかったので割愛します。

話は変わって彼女の話になるんだけど、
入院当初は心の支えになってた彼女も、
俺が死なないということがわかると豹変した。

もともと彼女は酒を飲むのが好きだったんだけど、
いろんな人と飲みに行くようになり、
一緒に飲んだ男を家に泊めるというのも当たり前になった。
自己申告してくれるし、浮気を疑ったりも最初はしなかったししたくなかった。
けど、外泊中遊んでるときにたまたまキスマークがついてるのを発見してしまった。
責めたくなかったけど、さすがに限界で浮気について問い詰めてしまった。
彼女は認めなかったけど、周りの人間は簡単に教えてくれた。

彼女とはゼミで同じなんだけど、
ゼミ仲間で飲みに行って、その中の男の家にもう一人の友達と
泊まることになったらしい。
彼女はなんにもなかったの一点張りだったけど、
そのもう一人の友達の証言をもとに問いただすとついに白状した。
その日一緒に寝てた奴とは別にもう二人、
関係を持ってたらしい。とんだアバズレだな。

で、つらくなって別れようって言ったんだけど
何故かそれは嫌だと泣き出し、とりあえずそのときは保留になった。
ちなみにこれは抗がん剤2クール目終わりごろのお話。

抗がん剤の3クール目が終わるころ、
彼女から別れてほしいと電話で切りだされた。
向こうは泣いてたけど俺は涙も出なかったし、
やっと解放されるとか思ってすぐに了承した。

月日は流れ、骨髄移植前に外泊を許可されて家に帰っていた時に、
元カノと共通の友達から連絡があって
どうしても会いたいから会ってほしいと言われた。
入院当初は支えてもらったし、死んだらもう会えないと思って
一応会うことにした。

久しぶりとか元気だったかとか他愛のない話をしたあと、
もう一度やり直したいと言われた。
さすがに楽天家で能天気バカの俺ももう不安の種は作りたくなかったからお断りした。
友達としての付き合いは了承したけど、相変わらずめちゃくちゃな要求が多かったから
結局全部ブロックしちゃったけども。
別れるときに何が嫌だったか聞いてみたんだけど、
やっぱり熱で死にそうな姿を見るのがつらかったらしい。
それに関しては本当に申し訳なく思うし、
入院してすぐ別れてあげればよかったと後悔もした。
そんな感じで入院中に3股された話はここで終わります。

元カノとのひと悶着を終え、移植のためにまた入院した。
俺の場合は運よくすぐにドナーさんが見つかって、
テンポ良く移植の段取りが決まった。
移植をするにあたって、
骨髄の中の血を造る細胞を殺すために超大量の抗がん剤を入れるんだけど、
これが強烈だった。

治療の名前も「超大量抗がん剤(化学療法)」で、
そのまますぎて最初は笑ってたんだけど、
いざ始まるとそんな余裕はなく
今までの抗がん剤治療とは比べものにならないぐらいの吐き気と気怠さが3日続き、
その3日間は携帯を見る余裕すらなく
見舞いに来てくれた両親にも構わずにずっと目を瞑っていた。
両親は無理に声をかけるでもなく、ただ祈ってくれていた。
大量の抗がん剤も体から抜け始めると少しマシになり、
話をするぐらい余裕がある状態で移植の日を迎えた。

移植というぐらいだから、麻酔をして〜みたいな大がかりなのを
想像してたんだけど実際は全然違った。
大きな点滴パック3つ分ぐらいに大量の骨髄液が入っていて、
それを点滴で体内に流していくというものだった。
点滴中は血圧が急に上がることがあるらしく、
頻繁に看護師さんが部屋にきて血圧を測ったり体温を測ったりしてくれたけど
特に何事もなく10時間近くかけて移植が完了した。
前にも書いたように、俺の主治医はカップ麺や冷凍食品を推奨する人だったから、
その日の晩も冷凍のグラタンを食べた。

移植から1週間ほど過ぎたころ、体に異変が出始めた。
まず食欲がなくなり、喉が腫れ、口内炎がたくさんできた。
口内炎を防ぐために毎日3回決まった時間にマズいうがい薬で
うがいをするんだけど、これが一日のうちで一番嫌な行事だった。
移植をしても、移植した骨髄はしばらくは血液を作ってくれないから、
貧血がひどくて胸に貼り付けられた心拍数測る機械で
常に心拍数見られてたんだけど、
トイレ行くのにも心拍数が一気に上がるから、
そのたびに看護師さんが心配して見に来てくれたりしてた。

そんなこんなで1ヵ月ちょっとそれが続いた後、
だんだんドナーさんの骨髄が俺の中で血を作り始め、
白血球も無事に増えてきて、ついに無菌室から外の一人部屋に移った。

味覚障害で何を食べても味がしなくて何も食べられない日が3週間ぐらい続いた。
母親には何でもいいから食べてくれとキレられ、
味がしないし砂を食べてるみたいで気持ち悪いんだと逆ギレし、
看護師さんになだめられみたいなのを続けてるうちに
ヨーグルトなら割と食べやすいことがわかり、
毎日三食そればっかり食べていた。

その後、少しづつ味覚障害も治りはじめ、
食事らしい食事が摂れるようになった。
食事が摂れるようになってからは、
リハビリの効果も相まって体力筋力ともに少しづつ回復していき、
骨髄検査の結果、無事に退院の日を迎えられた。
移植から実に4ヶ月後のことだった。
移植から退院までも特に面白いこともなかったので割愛したけど、
こんな感じでおよそ10ヵ月にわたる地獄の日々は終わった。

もう少し早い段階で病気が発覚していたら、
ここまで苦しむことも、周りに迷惑をかけることもなかったし
部活の仲間や心配してくれた友人たち、
特に両親には本当に迷惑をかけてしまって後悔しまくっている。

入院中、人の命や優しさについていろいろ考えさせられて、
本当にやりたいことを見つけた。
顔も名前も知らない人に命を助けてもらったというのは本当に大きなことで、
今度は俺が人の役に立ちたいと思うようになり、将来やりたいことが見つかった。
両親はそのために通っていた大学を辞め、
違う学校に再入学することを認めてくれた。

もうすぐ退院から半年になるので、匿名で聞いてもらいたくてスレ立てしました。
聞いてくれた人たち、本当にありがとう。
フェイクを入れると言ったけど、結果ほとんど入れてないので
知り合いなら特定できちゃうかもしれないけど、そっとしといてねw

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