本当の自分は猜疑心が強く、偏見にまみれてること。
小学生の頃、社会の授業で公害について学ぶ時間があった。
汚染された食べ物や水を口にした人がどんなに
酷い被害を受けたかたくさん紹介された。
被害者を介護している家族の手紙を読んだりして、
当時子供だった私は半泣き。
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「でも今はもう大丈夫なんです!
その公害被害を受けた○○(地域名)の××(果物)を買ってきました。
みんな食べれるよね?」
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と言って、買ってきた果物を食べるように言われた。
なんで「今はもう大丈夫」って言えるの?
大丈夫って先生は保証できるの?
でも本当に大丈夫なのに食べなかったら、
私は差別する人だし正しくない!
って頭の中は恐怖と罪悪感でグルグル。
結局、みんなは食べたのに、
自分だけ果物を食べることができなかった。
家族と元気に暮らせなくなるかもって思ったら
だめだった。
すると、先生が突然
「実はこの果物は、○○(地域名)で穫れた××(果物)じゃありません」
と言い出した。
えっ?どういうこと?
食べても大丈夫ってそういうことだったの?
公害被害を受けた地域の食べ物は大丈夫って、
結局何で分かったの?
と、バカだったから余計混乱した。
凄く青ざめてたみたいで、クラスメイトたちから
凄い心配されたり、いろいろ慰めの言葉をかけられて、
こんな偏見を捨てられない自分に本当に
申し訳ないって思った。
帰って日記に書いて、ひ
とりで泣いた覚えがある。
東北の地震が起きてから、
放射能汚染の話題を耳にする度にこのことを思い出す。
今は、私は数値測定という根拠を信頼して食材を買って食べてる。
でも、あの時の偏見に満ちた私が
ほんとの私なんだろうなと心の底で思ってる。
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