8歳の時、学校から帰ったら いつもいるはずの母がいなかった

8歳の時、学校から帰ったら
いつもいるはずの母がいなかった。

買い物だと思ってその時は気にしてなかったけど
5時になっても6時になっても帰ってこなくて
どっかで怪我したかお腹が痛くなってるのかと思って
近所中を探したけどいなくて玄関先でずっと待ってた。
暗くなっても待ってた。
そのまま玄関先で眠ってしまって目が覚めたら父がいた。

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それから険しい顔になった父があちこち電話かけて
バタバタした数日が過ぎたのだけは覚えている。
当時は訳も分からず父に言われるままに流されていたが、
後に聞いた話によると
要するに母はほんの数十メートル先の家庭の旦那さんと
出て行ったらしい。
リビングの引き出しの中に置手紙があったらしく、
そこに離婚届も同封されていたそうだ。

相手の家庭の奥さんとうちの父親、
それに俺を含む子供たちは
近所中の好奇の目で見られ双方引越しをした。
たぶん一学期の終わり頃の出来事で、
夏休み中に引っ越し二学期から転校した。

大人の事情はよく分からなかったが、
とにかく俺は母に捨てられた。
それだけが子供心にずっしりトラウマになり
どんどん暗い子供になっていった。

幸い父はあまり泊りの出張などのない仕事だったので、
それまでより早く帰ってくれるようになったが
少しでも遅くなると父にも捨てられるんじゃないかと思って
玄関先でめそめそ泣いてるような子だった。

そして4年生になる直前に新しい母親ができた。
新しい母親は菊池桃子にそっくりの可愛い女性だった。
俺は新しい母親のことを「ももちゃん」と呼んだ。
いつもニコニコしてて俺のことをとても大事にしてくれた。
遠足の時には今で言うキャラ弁みたいなのを作ってくれて、
世界がパーッと明るくなったような生活になった。

後で知ったが、ももちゃんは父の同僚だった。
一度結婚したが子供がのぞめなくて離婚したそうだ。
もともと子供が大好きで、
だから父との再婚には子供がいることは
何の障害にもならなかったらしい。

父が再婚した翌年の母の日に、
思い切って「ももちゃん」を「お母さん」と呼んだら
泣いて抱きしめてくれた。
その頃にはもう、
俺を捨てた実母のことはすっかり忘れていた。

高校3年の時、父が通勤途中に心筋梗塞で急シ。
その後もそれまで通り普通に母子として過ごした。
父も結構な遺産を残してくれたので、
お金の苦労はたぶんなかったと思うが
趣味が高じて講師になっていた母は、
最初の一年ぐらいは落ち込んでいたものの
元のように忙しそうに楽しそうに毎日駆け回っていた。

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が、俺が大学を卒業して
新社会人になったのを見届けるように
突然事故でこの世を去った。
これからももちゃんに恩返し、
親孝行しなきゃと思ってた時だったから
父がしんだときよりショックは大きかった。
が、それでもなんとか立ち直って仕事に打ち込み、
30過ぎて結婚もした。
40代も半ばになり、3人の子供にも恵まれた。

そんなある日、実母が突然訪ねてきた。
俺の居場所はずっと前から知ってたらしい。
だけど自分が子供を捨てたのは事実だし、
新しいお母さんに懐いているようだったから
遠慮したらしい。
でもずっとお前のことは気にかけてた。

そんなことを一方的に告白され、
どこのドラマの話だよと思わず突っ込んだぐらい
ベタな告白だった。
が、用件はお決まりの金の無心だった。

最初分からなかったぐらい
皺皺のクシャクシャの老婆になった母は
同居して面倒みてもらうか、
ダメならホームに入る金を出せと。
同居なんてしてもらえるはずないと分かってて、
ホーム代を出せってのがメインだったんだろう。

父親から十分お金残して貰ったんだろ?
8歳まで育てたのは私だよ?と
糞みたいなセリフを次々垂れ流してきた。

「別にいいよ。ホームに入るなら金は出す。
その代り入所先は俺が決めていいよね?」
と言ったら満面の笑顔で喜んでいた。

「但し、調べられる限り
最悪で劣悪な環境の最も安いホームを探すつもりだから。
そういうところは常に空きがあるし、
すぐに入れそうだもんな。
そこにあんたを捨てるのが俺の夢だったんだ」
と言った。

実はそれはずっと考えていたことだった。
もしも実母が現れたら、
もしもそれが最低に落ちぶれた実母だったら、
家族を守るにはどうしたらいいだろう。
そう思った時に、それしかないと思ってた。

結婚する時、妻には実母のことは話してある。
こういう日がくるかも知れないことも話した。
その時の対処については俺に任すとも言われていた。

実母は以来現れない

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