母「一日500円あげる。 お母さんの事務所で手伝ってちょうだい」

いま無性にサッポロラーメン塩味に
キャベツ入れただけのが食いたい
中学生の頃、お昼兼おやつに
一人でそれを食べるのがとても楽しみだった
母親が事務やってた小さい事務所でひとりで。
なにもわからん、中学生の女子が。

「バイトをやらないか。一日500円あげる。
お母さんの事務所で手伝ってちょうだい」

何かしらの提案に対して、当時の自分には

「やりたい、面白そう、興味ある」

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と答える以外の選択肢は無かった。
母の機嫌を損ねるとしばらく逆上して面倒なので、
兄弟の間では一番のタブーだった。

そこは田舎の県道沿いの、
小さな土建会社の事務所で、
母はそこの唯一の事務要員だったらしい。

学校から帰ると家でなぜか母が待っていて、
中学の制服のまま、車で事務所に連れて行かれた。
本当に何もない、自販機すら見つけづらいような
交通量も少ない場所で、
何かあって叫んでも誰も来るわけはない。

簡単な表を計算すること。
お客さんが来たらコーヒーを出すこと。
それだけ言いつけられて、
母はどこかへ去り、迎えが来るまで
自分は事務所にひとりで残された。

「おなかがすいたら、ここのラーメンを作って食べていいからね」

ミニキッチンに置かれたダンボールの中の
サッポロ一番塩ラーメンと、
冷蔵庫の中のキャベツ。
勝手にガス火と鍋を使って、
勝手に自分の食べ物を作って食べていいことが嬉しかった。

この時点ですでに500円のことは忘れている。
いろんなものごとを忘れ、
いろんなことに気づかないこと、
そして勉強だけが得意な中学生だった。
簡単な計算を済ませて、
ときどき来る知らない男の人に
インスタントコーヒーを出して帰ってもらう。

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それでとても満足していた。
何より、事務所には誰も来なくて、
とても静かな空間で居心地がよかった。

我ながら眩暈がするが、
電話や来客の名前も用件も、
メモをするということにすら気づかなかった…
いや、口頭では伝えていたのかもしれない。
その頃の記憶はとてもあいまいで、
インスタントラーメンの味だけが鮮やかだ。

しばらくして、いつもは母だけが
迎えに来る事務所に、会社の社長が一緒に来た。
たぶんその次の日から、
もう事務所には連れて行かれなくなった。

いま自分にわかることは
・母は、経済的事情でいわゆる出戻りをした。
母方の祖父母宅に同居、自分たちきょうだいは全員連れてこられた
・出戻りと言っても、最初は父も一緒だった。
すぐに出ていったらしい
・どうやら父との離婚が確定する前に
ここの事務職に就いたらしい。
そしてすぐに管理を任された
・会社の社長(祖父と同年代)は、
地元の同業種である祖父との面識はあったはず
・祖母と母の関係は最悪で、祖父は孫から見ても
あっという間にやつれて空気になった
・母はいつも、会社の車だという高級車に乗っていた
・社長は自分たちきょうだいを
自分の子のように思い、彼なりに可愛がろうとしてくれた
・中学生の娘を制服のまま、昼すぎから夜まで一人で、
土建系の事務所に放置するのは異常だ。
・どうやら自分は周囲の人々から非常に同情され、
悪意から守られ、それなりに忠告すら頂きつつ、
 それに対して謝意すら表せずに、
ただぼんやりと笑っているしかなかった

思えば、あの当時は家族がみんな、
終わらない真っ黒な闇の中に生きていた。
家族として機能していないバラバラの集団の中で、
皆が常に不安と恐怖と孤独をかかえつつ暮らしていた。
誰もが悪者になりたくなかった。
同情してほしかった。誰かに手をさしのべてほしかった。

明けない夜や終わらない修羅場もある。
祖父も祖母も、誰も信じられない闇の中で亡くなった。
紛争の体験記を読んで、
当然のようにその場の空気が理解できる自分に気づき、
ふとどこかに書き捨てたくなった。
刃物のこと、野犬のこと、
不審者の前に置き去りにされた時の身の守り方、
いつもおなかをすかせていて、
きゅうりの輪切りに醤油つけたものが
夢のようにおいしくてたまらなかったこと…

そのあとなんだかんだあって、
家庭は無事に離散しました。

育児に悩み苦しむお母さま方のために、
早くスウェーデンみたいに
「育児は社会の義務」という考えが根付きますように。
ティプトリーか誰かが描いていたが、
未来では「子供を産みの母親が育てる!? 不潔だ!!」
ということになっているらしい。
自分の人生を犠牲にして育児をして、
自分の老いをよそに若い娘がすくすくと育って、
そんなん、よほど恵まれた環境でなければ、
母親は娘を憎むよ。当たり前じゃないか。
まして、母親は自分の父ほどの年齢の男性と
愛人関係を結んでいるのに、
娘はそんなことをまるで気づかないふりで
読書と勉強だけしてうすぼんやりと笑って過ごしていたら、
そりゃ誰もいない事務所に放置だってしたくなるよ。
そして、事務所に出入りする
必要があったはずの社員たちは、
みんな直行直帰するよ。

娘と顔を合わせても、
気まずくなってすぐに逃げ出すよ。
社長は自分たちきょうだいを孫のように
かわいく思っていたらしいから。

もしも社長がはっきりと
「君たちの母親を愛している、大事に思っている」
と言ってくれたら、
自分たちきょうだいは彼の前で愛想笑いするだけでなく、
感情的に受け入れていたかもしれない。
いや、ご夫人が存命だったはずなので、
それはそれで別の修羅場が始まっていたのだが。

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