「火垂るの墓」を視ていたら祖父「こんな話聞いたことないわ」

数十年前の夏休みの夜、
当時小学生だった私と祖父は二人でスイカを食べながら
「火垂るの墓」を視ていた。

叔母さんの家で邪険に扱われる清太を見た私は
「悲しいよね、おじいちゃん。
昔は疎開先で同じ目に遭って死んだ子が
いっぱいいたんだろうね」と嗚咽してしまった。

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すると祖父はため息をついて

「こんな話聞いたことないわ。
ここもド田舎の農村じゃからな、
都会から疎開者が押し寄せとったが
清太とかいうのより年下の奴でも畑を借りて
ナスやらジャガイモやら育てて生計たてとったぞ。

そもそも村社会で厄介者がぶらぶらできるわけないやろ。
村の青年団に首根っこつかまれて
勤労奉仕に強制参加させられとるわい」
と断言した。

でも叔母さんのあの扱いは虐待じゃんと言い返すと

「そりゃ今の基準からしたらな。
でも昭和10年代いうたら貧しい農村じゃ実の親の元で
清太よりずっと酷い待遇受けて育つのが普通なんじゃぞ。
あのおばさんの家は裕福な方じゃろ。
おしんなんて戦争に関係なく
清太より10倍過酷な環境で育っとるじゃろが。
あれの何処が辛いんじゃ。昔のガキはあんなに軟やない」
と吐き捨てられた。

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ネタじゃなくて
現に祖父がそう言ってましたからね。
清太を批判というより
作品そのものにリアリティがないと
言ったんだと思います。

疎開して来た家の子供たちも
(たいてい父親が出征していて
母親と子供だけで疎開に来た)
みんな自力で畑を耕したり魚釣ったりして
たくましくやってたそうです。

祖父は
「戦時中でも田舎にはちゃんと食べ物があった。
都会から疎開してきた奴らは着物と交換したり
畑仕事を手伝ったりして野菜をもらって
配給だけでやりくりしていた疎開前より栄養をとってた。

地元の俺たちは着物や調度品を手に入れて
安価で若者に畑仕事を手伝ってもらえた。
疎開はする方は受け入れる方にも
徳がある有益なものだったんだよ」
と言ってました。

学校の授業で習った疎開は
陰惨なイメージしかなかったのでかなり意外でした。

都会の人に畑仕事の手伝いが出来たのかと聞くと
「俺らも最初は町で良い生活してたモヤシに
農作業は務まらねェと思ってた
実際最初連中はモタモタしていて
ろくすっぽ草刈もできなかったが
飯がかかっているから
皆死に者狂いで努力して覚えんだな。
数か月で使い者になったんだよ。

小学生でも村の子と変わらないくらいに
稲刈りができるようになってな。
俺も母ちゃんに疎開者があれだけ畑で働いてるがに
あんたは追い抜かれたねってハッパかけられたわ。」
と笑ってました。

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