新年度になったこの春のこと。
回覧板を次の家に持って行きました。
新しい順番になったので去年とは違う家ですが、
挨拶程度しかお付き合いはありませんでした。
まだ子供のいない若いご夫婦の家でした。
うちは周りに一般家庭が少ないので、
次の家まで少し距離があります。
サンダルをつっかけて歩いて行くと、
目的の家の前になんだか人だかりが見えました。
ご近所さんも少し遠目に見ています。
なんだろ?と思ったけど用事があるので、深く考えずに行きました。
塀に囲まれてて見えませんでしたが辿り着くと、
玄関前には仁王立ちという感じに立つその家の奥さん(ゴミだしの時に顔見知りです)、
その前に土下座する男性と、少し離れて立つ初老の女性がいました。
奥さんの顔が固まってて怖いくらいで、土下座の人を見下ろしてました。
これはまずいときに来てしまった、とようやく気付きましたが、
奥さんが私に気付き、
「こんにちは。ちょっとお待ちくださいね」
と強ばった顔で笑って、
土下座の人の横を通り過ぎて道まで出てきてくれました。
「はい、え、と、回覧板です」
と我ながら間抜けなことを言いながらそれを渡すと、
「ありがとうございます。わざわざすみません」
と、これまたぎこちないお返事が。
この人も実はパニくっているのかな、と思い、
小声で「あの、大丈夫ですか」と聞いてみました。
「はい、大丈夫です。でもよろしければ、
そろそろ警察を呼ぼうかと思ってたのでお願いできますか?」
と言われました。びっくりです。
生まれてこの方、警察に電話したことなどないので。
「はい!わかりました!」と言ってはみたものの、回覧板を渡せば完全に手ぶら。
「すみません、携帯持ってきてなかったです」と正直に言いましたら、
奥さん、ぶはっと笑いだし、
「ごめんなさい、うちからかけますね」
なんとなく空気がなごんだその時です。
「あの…」と地の底から響くような低い声がして、
私はびくっとしてしまいました。
土下座の人でした。いつの間にかこちらに頭を向けていてその姿勢、
驚きました。えらい低い声だったので大男かと思ったら、
後でよく見ると小柄な人でした。
「迷惑ですので、そろそろお引き取り願えませんか?」
と冷たい声の奥さんに、
初老の女性も立ったままですが頭を下げます。
「しかし…」
「あなた方に貸せるお金はありません」
ようやく事態が見えてきました。
そういえばこちらのお宅は新築です。
が、それ以上のことはわかりません。
唐突に土下座の人の身の上話?
が始まったのですが、奥さんはそれを遮り
「あなた方の事情に興味はないとも言いました。あのですね、
少し前にあなたのように土下座して主人にお金を貸してくれと
言ってきた人がいます。主人は友人だからと少し融通しました。
後で、その友人が何と言っていたと思います?」
奥さん、だんだん早口です。ハラハラしました。
「『ちょっと土下座してみせたら金を出した、安い奴だ』って、
お酒を飲んで言っていたって。それで主人は、もうお金を貸しませんでした。
そしたら、『お前の職場で土下座してやる、お前はひどいやつだって、皆にバラしてやる!』って」
「 土下座って、乞食の恐喝ですよね! 」
誰も声を出せず、動けません。
奥さん、泣いてました。
やがて土下座の人はゆっくり立ち上がり、何も言わずに立ち去りました。
疲れ切ったような苦々しい顔で、私たちを一度も見ませんでした。
最後まで初老の女性は無言で無表情、そのまま男性の後についていきました。
その後は、奥さんが泣き崩れてご近所さんが駆け寄ってきて慰めたり、
誰かが通報した警察の人がきたり、といろいろありましたが割愛。
ちなみに私は役立たずでした。穴があったら入りたい。
奥さんはしばらく家にいなかったようなのですが、
最近戻ってきたらしくゴミ出しで会います。
普通に挨拶するだけで、あの時の事情はいまだに不明ですが、
修羅場に遭遇した話でした。