中学の同級生だった。
1年から3年まで同じクラスだったが、
当時は別につき合ってはいなかった。
クラス全体が荒れていて、とてもそんな雰囲気じゃなかった。
男子は相手を茶化したり罵倒したりして相手の顔をつぶせばつぶすほど、
女子は陰険で意地悪なほどカッコイイみたいな空気だった。
自分は超真面目だったのでそんな所にいるのは
耐えられなかったが、
高校には行きたかったのでひたすら耐えた。
いわゆる内申書がものを言う時代だった。
今も高校入試に内申書という制度があるのかは知らない。
それで、上に書いたようなボンヤリした印象は残っているんだが、
中学3年間の具体的な出来事が何一つ思い出せない。
うちの奥さんと結婚してから、
自分にそういう記憶がないことに気づいた。
封印した記憶をほじくり返すのは危険らしいということも、後で知った。
話はいきなり大学4年に飛ぶ。なにしろ高校も大学も記憶がとぎれとぎれにしかない。
大学は、東京に星の数ほどある大学の一つに実家から通っていた。
うちの奥さんもそれは同じ。東京の大学は、
地方出身者も多いが実家から通う学生も多い。
なにしろ日本の人口の1/4以上が1都3県(東京神奈川埼玉千葉)に
集中しているわけで。
うちの奥さんとは高校も大学も別々で、もう縁がないはずだった。
最寄駅は同じでも、使う時間帯が合わなかったらしい。
こっちは工学部のバリバリ実験系なので、
某装置の都合で朝早かったり夜遅かったり
時には泊まり込みもあったり。
ラボで学部4年生というと下っ端なので、
院生や助手さんに言われるがままに動くしかない。
年中無休の奴隷生活だった。
確か、完全オフの日は大晦日と正月三が日と3月31日だけだった。
あとは土日もラボに行ってた。
装置は24時間365日稼働させてないとダメだったから、
教授から技官さんまでの、責任のあるスタッフが誰か1人必ずいた。
だから学生も駆り出されたわけで・・・
うちの奥さんは文学部。フランス語学科だそうだが、
卒業したら一瞬で全部忘れたらしい。
鼻にかかった声で「ぶーじゅー?」
以外は全部忘れたといって笑ってる。(ボンジュールらしい)
何月頃かはっきりしないが、冬じゃないと思うんだが、
駅の自転車置場で帰りに偶然会ったんだな。
珍しく普通の大学生の帰宅時間に帰れた日があったんだろうと思うが、
もう昔のことで季節もわからない。
その日は懐かしくて、2人で自転車で近くの公園まで行って、
話をして別れた。
どうもこの時の印象がお互い良かったらしい。
ケータイが普及する前に数年だけポケベルが流行った時代があったが、
それよりさらに前のことだ。
ああ古い。
翌年(計算上そのはず)、うちの奥さんは社会人になっていた。
こちらも修士課程で実験しつつ就職活動をしていた。その最中に、また駅で会った。
こんどはホームで。朝、奥さんが階段を降りてきて、「あっ」
あの朝の十数分の電車は楽しかったなぁ~ いや楽しいというか何というか、
もう頭の中はハッピーでわけがわからない。
満員電車の中だし、つとめて平静を保ってるんだけど
お互いに好意をもってるのがはっきり分かる。
ラッシュは今よりずっとひどかった。
東京通勤圏が年々広がっていくような時代だった。
後ろからグイグイ押されるのを必死に食い止めたりして紳士的にふるまいましたとも。
数駅で乗換駅、そこですぐ別れたけど、もうこの時には目の前に肉ぶら下げられた犬状態。
なおカバンはしっかり下腹部にかかえた。「若かった」w
当時の工学部の修士の就職活動は、全大学がそうだったかは知らないが
メーカーなら教授のコネで決まるのが基本だった。
今就職活動をする側に立つ機会がないから
今の院生の就職活動の本当の苦しさはわからないが、
たぶん当時のほうがずっと気楽だった。
ただし、教授がもってきた「見合い話」を断る自由はなかった。
企業側が断る自由はあったが
こちらに選択権はなかった。だから決まるまでに時間はかかった。
コネといっても1ヶ所や2ヶ所で決まるものじゃなかったが、
修士号が取れるかどうかが問題で、就職はまあどうにかなるだろう、
修士号が取れなければ取り消しだが、という感じで、悲壮感はただよっていなかった。
ラボの先輩もずっとそうだったし。
元々、就職活動を終えたら実験の追い込みということで
実家を出て大学の近くのアパートにでも引っ越すつもりでいた。
実際、通学の往復の時間がもったいないと思うようになっていた。
きちんとしたデータが取れなければ修士論文も書けないし。
うちの奥さんと駅で会った日からあまり経たないうちに
無事就職が決まって、
それではということで、つとめて平静を保って、
心の中ではもう大喜びで実家を出た。
2人とも実家通いだと連絡が取りにくいんだな。
うちの奥さんも同じようなことを考えていたらしく、
どっちが先だったか覚えていないが
彼女も両親を説得して1人暮らしを始めた。
あの当時、結婚前の女子が1人暮らしをするのは
今よりずっとハードルが高かったはずだが、よく許してくれたもんだと思う。
独立して、家族の目を気にせず大っぴらに
夜中に電話ができるようにはなったんだが、
こちらは依然として奴隷生活だった。
とはいえ学部生に比べればまだしも時間の融通が効くようになったんで、
互いの家に行ったり来たりするようになった。
家に行って泊まり込めば、やることは決まっている。
あとはお決まりのコース。就職して、同棲を始めた。
互いの両親に紹介して、結婚した。
それで、うちの奥さんが病気で倒れるところまで既定路線だが、
それはもういいよな。
同棲を始めてから何年か後だと思うが、
いよいよ結婚しようかということになって
うちの母親に紹介したら「え、あの娘?」と言われて仰天した。
こっちの母親と奥さんの両親は面識がなかったらしいが、
なぜかこっちの母親はうちの奥さんの顔と名前と、
あのへんに住んでいるぐらいのことは中学時代に知ってたらしい。
奥さんの母親も俺のことを名前ぐらいは聞いたことがあったとか。
元クラスメートってそんなもんなのかね。
どこの馬の骨とも知れない人物じゃないということで、
特に反対もされずスムーズに結婚にこぎつけたが、
奥さんの父親は某証券会社の社員、当時部長か何かだったかと思うが、
こっちの給料をしつこくたずねられて1円単位まで白状させられた。
新婚旅行は蔵王温泉に行った。
もう一般人でもハワイ旅行に行ける時代にはなっていたが
2人とも温泉が好きだから、
わざわざ海外行くより2人が共通で楽しめる所に行こうということになった。
奥さんがそれでいいなら文句はなかった。
露天風呂つきの15畳だか18畳だかの部屋に泊まった。
晩御飯は、お膳を運んできた仲居さんがそのまま居残って、
つきっきりで御飯をよそってくれたり
カセットコンロ(だったか固形燃料だったか)に火をつけてくれたり・・・
まだ20代の若造としては、高い部屋だと
そんなサービスがついてくるのかと思って面白かった。
新婚さんですか?と訊かれて何ともくすぐったい気分になった。
布団はだだっ広い部屋の真ん中にシングル×2がちんまりと。
翌朝、気分が盛り上がって2人で部屋の露天風呂に入っていると
その仲居さんが「失礼します」とやってきた。
ちょ、ちょっと待ってまだこっちは風呂だよ。うひゃぁw
今思えば向こうは慣れているんだろうが、こっちは恥ずかしい思いをした。
大浴場にも行って、足湯も入って、温泉三昧で2人でニコニコしながら帰ってきたが、
最終日に仙台で牛たんを食べて帰ろう、なんてことをやっていたら
帰りの東北新幹線の時刻がギリギリで、あと数分遅れたらもう帰れなくなるところだった。
危なかった。
新婚旅行も終わって、さて子供は、と思った矢先に
うちの奥さんに不正出血が出た。こういう話はネット上にいくらでも転がっていて、
いかにも陳腐だと思うが、子宮ガンだった。しかも結構進んでいたようで、
全摘しかないでしょうということになった。
夫婦でドクターから宣告された時の気分は何とも言いようがない。
頭のまわりの空間がグニャリと曲がったような感じとでもいうか。
自分より、うちの奥さんはどうなんだろうと気がついたが、一見気丈にしていたが
病院から一度家に帰る時に何でもない所でつまずいて転んだのをはっきり覚えている。
慌てて助け起こした。そのシーンだけは今でも強烈に記憶にある。
手術はうまくいった。その後再発もせず今に至るから、ガンについてはもう心配していない。
奥さんはこの手術のタイミングで退職して専業主婦になったが、結局うちには子供がいない。
養子をとろうという話にはならなかった。
しかたがないものはしかたがないので、2人で割り切って静かに暮らしている。
毒親とかネグレクトとかが騒がれるようになって、
このごろは夫婦だけというのも気楽でいいもんだと思えるようになったが、
それはこっちだけのことであって、
うちの奥さんの心の奥底が今どんな様子なのかは正直言ってわからない。
1人で泣いて座り込んでいるうら若き乙女のまま、
時間が止まっている可能性もあると思う。
なんか暗く始まって暗く終わるが、
まあ、こういう馴れ初めもあるということで。