帰宅すると母親が家の中で倒れて生後四ヶ月の娘は床に転がっていた

今から13年前私が小学3年生の時の話
冬休み明けで午前で学校が終わって正午くらいに
帰宅すると母親が家の中で倒れていたのが人生最大の修羅場
倒れる直前まで抱っこしていたであろう妹(生後4か月)は
床に転がってひたすら泣いて声が枯れていた
今思えばこの大泣きが原因で妹は今でもハスキーボイスなのかも
とりあえず妹にミルクをあげて母親に状況を聞くと、
午前10時くらいから倒れていたらしい

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救急車を呼ぼう、父親に連絡しよう、(母方)祖母に連絡しよう、
近所の友達の家に連絡しよう、何を言っても母親は大丈夫しか言わなかった
床でずっと倒れさせているわけにもいかないから、
170cmの全身に力の入ってない母親を引きずりながら
おんぶしてベッドにどうにか運んだ
途中すべって母親をずり落しちゃってストーブに思い切り頭ぶつけちゃった
そういえば午後から友達と遊ぶ約束していて
迎えに来られちゃったけどその時はどうにか断った気がする

妹は寝て静かになったけど母親は頭が痛いって言ってて、
どう見ても寝てれば治るタイプの頭痛じゃない
本当は救急車を呼びたかったけど母親が大丈夫っていうから
とりあえず父親と祖母に(これも止められたけど無視して)連絡した
トラック運転手だった父親と、
同じ市だけどバス2本乗り継がなきゃいけない祖母のどっちが
最初に来たか覚えてないwww
まあどちらかが来て救急車呼んで搬送されたのは夕方になっていたのは覚えている
母親は33歳で脳梗塞になった
処置が遅れたことが原因でかなり重度の左半身マヒが残った

私が独断で救急車を呼んでいればマヒはもっと軽く済んだ
私が何もできなかったから障害が残った
間はしょるけど母親の介護やトラブルの後始末等を
私が自分を犠牲にしてやり続けるのは私なりの罪滅ぼし
苦しいし楽じゃないし何度も投げ出したいと思ったけど
母親がタヒぬまで私の心の修羅場は消えない

搬送された母親について行ったかとか次の日の学校は
どうしたかとか何故だか思い出せないのが今書き込んでてわかったwww
友達の家族がお昼ご飯代金をくれてコンビニの冷やし中華を
食べたのは覚えているけど、倒れていたその日友達と遊ぶことは断ったはず
全然食欲がなくてちょっと食べては落ち込んでっていうのを繰り返したのも覚えている
いつ食べたんだろう
搬送された次の日からは祖母が家のことをしてくれた気がする

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スナックのキッチンで働いていたからどうにか両立していたのかな
母親のお見舞いに初めて行ったのはいつだっけ
泣きそうな震えた声だけどでも心配させないように
私が不安にならないように笑いながら
「動かなくなっちゃった」って言っていたのは
ちゃんと覚えている 私と祖母はどうにか泣かないようにして
母親と同じく笑って頷くことしかできなかった

母親が倒れた日以降の修羅場ハイライト
・妹の施設行き
・両親の離婚後母親と祖母との3人暮らし
・母親が情緒不安定で障害者なのに手が付けられないほど
大暴れし周りから同居続行不可と判断され、
母親と離れて祖母と暮らす

・母親36歳前後で乳がん発覚からのその数年後に鬱発症
・祖母の更年期障害の情緒不安定で追い出されて母親と2人暮らし
・私は転校先の中学で不登校になり夜間高校に面接で
自分の半生を涙ながらに語り泣き落としして合格
・母方の叔母が内縁の旦那がいるのに年下男性と不倫駆け落ちして
家に住まわせてたら妊娠してやっと出ていく
・夜間高校ながらどうにか頑張って推薦で大学に
進学が決まるも奨学金の保証人が立てられず半年で中退
・夜の世界に落ちて役職付リーマンくらいの給料を
生活費として母親に欲しがられるまま渡していたら架空請求にハマる

・いろいろ調べたら借金やら騙されて払っちゃったお金やら家賃滞納やらで大パニック
・法テラスに相談して1年かけて自己破産
・夜のお店で働いていて出会った男性と結婚して
母親と別居するも夫への嫉妬からか構ってちゃんが急加速
・最初のうちはお義母さんのためと何かと協力してくれた夫も
母親を嫌うようになって味方居ないワロスwwww
・結婚5年目にして子供がいないのは高校生の時に
発覚した私の子宮内膜症のせいなのか
 母親の存在が足かせとなってまだ時期じゃないという
神様の思し召しなのかしら
・いまだに母親の構ってちゃんは速度を落とすことなく突っ走っている←イマココ

長すぎるし他人にべらべら話せる内容でもないから
ここで発散させてもらいました
忘れているのか思い出さないように自己防衛が働いているのか
わからないけど所々ぐちゃぐちゃですみません

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