僕の家族はみーんな16~17のころに亡くなっちゃった。役所「プッ働けばw」

この時期になると思い出す話

さらっと昔話すると、僕の家族は
みーんな16~17のころに亡くなっちゃった。

16の時に親父で、
17の時母・弟・妹ってな具合。
他の親戚はとうの昔に他界。

役所いっても「プッ働けばw」
みたいな事言われたから、
高校辞めて働くことにした。
2年までは進級してたから、
一回辞めてお金貯めるか奨学金通ったら
夜間に通おうと思ってた。

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唯一生きてる父方の祖母に保証人に
なってもらったり協力はしてくれたけど、
かなり高齢だし自営で年金も大してなかったから、
金銭的な支援は無理だった。
家借りれる金が出来るまで、
知り合いのガレージを間借りしてたりもした。

そのころの生活は辛いのなんの。
狭い部屋で暖房もなくて、
家にいるときはずっと布団にくるまってた。
畳でよかった。フローリングならしんでた。

食べる物もろくに買えなくて、
安い小麦粉買ってきて塩と水で
練ったものを茹でたのが主食だった。
もったいないから
水で薄めた醤油に付けて食べて、
時々安売りの野菜とたまご買ってきて、
お好み焼きみたいなの作るのが贅沢だった。
ソースは高いから醤油オンリーだけど。

18になって夜勤ができるようになって、
スーパーに卸す食品工場で働いた。

この時期は、関西ってのもあって
恵方巻作りのシフトは夜通し働いた。
節分なんてあんまりやらない家だったから、
初めてまじまじと見たけど
「ただの太巻きやんけ…」と思った。
世の中の家族はこんな良いもん食ってんだな~
なんて思って羨ましかった。

でもその恵方巻は沢山廃棄されてた。
それだけじゃなくてお惣菜とかも。
工場で破棄する分もあって返ってきてたから、
あまりの量にびっくりした。
店舗廃棄も含めるともっと多いんだろうね。
言うほど売れないもんだし、
どこでも売ってるからな…。

その時なんの意識も
してなかったけど涙が出てきた。
なんでこんなに僕は腹空かして
我慢してるのに、頑張って作ったのに、
食べれるのに捨てちゃうんだろ。って。
でも誰も顔色一つ変えずにポイポイ捨ててた。
工場やスーパーからしたら、
見切り品で食中毒なんてシャレにならんし、
捨てるのが一番らしい。

その日僕は人生で初めてゴミを漁った。
ゴミ袋を回収に来る前に、
廃棄された惣菜をこっそり持って帰った。
とても悔しかった。
なんでこんなことしなきゃいけないんだろう
って事ばかり考えてた。
それでもゴミの中から漁った
久々の米はおいしかった。
寒い時期で常温でも冷蔵庫みたいなもんだから、
お腹一杯食べれた。

でもその週に工場のリーダーに
辞めて欲しいと言われた。
浮浪者がゴミ漁りするから、
ゴミ庫には監視カメラが付いてたらしい。
なんでそんなことするんだ!
お前はホームレス以下か!
とかなり怒鳴られた。

僕は「それでもいいです。
お腹が空いてたんです」と
言葉に詰まりながら言った。
リーダーは、僕がゴミに金目の物や
貴重品を紛らわせて捨てて、
それを回収してると思ってた。

そらそうだわな。
21世紀に米が食いたくてゴミ漁るとは誰も思わん。
あまりプライベートなことを
話さなかったので、リーダーはびっくりしてた。
一通り話を聞いてもらって、
でも辞めて欲しいという話は
自分より上からだから…と涙を浮かべて言ってた。

僕は「ご迷惑をお掛けしました」
とだけ言ってそこを辞めた。
でもリーダーは、辞めた後
時々廃棄前の食材とかお惣菜を
こっそりくれるようになった。

会社にバレたらリーダーが怒られるから、
無理しないでください!といっても、
「もったいないから。食べてくれるほうが
良いに決まってる」と渡してくれた。

他の仕事をしながら、
それなりに生活基盤ができてきて
(それで貧乏だけど)高校に通う余裕ができた。
定時制だけど、1学年の単位はあるし、
勉強してたから入学後もそんなに苦ではなかった。

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結局リーダーは
高校卒業するまで気にかけてくれて、
ご飯を持ってきてくれた。
すごくありがたかったけど、
あまりに堂々と持ってきてるからヒヤヒヤしてた。

卒業した後に聞いたけど、
工場のオバちゃん達も察してくれてたらしく、
黙認してくれてたらしい。
無駄に作ったもんじゃないし、
ちゃんとゴミとして計上して
(別の袋に)出しただけで
窃盗とかじゃないし!とのことだった。

世間的には褒められたことじゃ
ないかもしれないけど、
聞いた時は嬉しくて涙が出た。
今でこそ一人で生きるのに
困らない程度には生活できてるけど、
この時期の恵方巻(のみならず)
大量廃棄のニュースを見ると悲しくなる。

僕ですらこの話はほんの5年前位の事だし、
誰かが餓シしただののニュースを見ると
他人事とは思えなくて涙が出る。

・無理に売ろうとしない。
・売り切れてても文句言わない。
・食べる分だけ買う、作る、盛る。
・外食の食べ残しは持って帰る。

こんな簡単なこと「だけ』なのにな…
といつも思う。
まあ廃棄を誰かにあげるってのは
よろしくない行為かもしれんし、
廃棄食糧に誰かがありつければいいって
話でもないけど…。
資本主義だししょうがないんかね。

じゃあ何をどうしたらいいんだ?
と言われてもわからんが、
なにはともあれ無駄はよくないよね(真顔
と思う今日この頃。
長くてゴメンナサイ。

はしょってしまった事を少しだけ補完します。

遺族年金に関しては、
残念ながら受給資格がありませんでした。
我が家は自営業を営んでいましたが、
年金の不払いが長く申請に行ったのが
無駄足だったくらいです。

中学のころ母が出ていってしまい
(子供達は仕事でと聞かされてました)、
実質父子家庭の様なものでした。

業績は悪かった様で、父が他界したとき
初めて知ったのですが国民保健すら
長らく払ってませんでした。

中学の修学旅行は「家庭の事情」で
参加できませんでしたが
(今思うと国民保険がなかったのも理由でしょうか)、
兄弟含め誰も大病や事故にも
あわなかったのが幸いでしたね。

更に、母は出て行った時に籍を抜いており、
日本の裏側の外国で知り合った方と再婚もしてました。
父は自ら亡くなっており、警察から連絡を受けたのは僕でした。

祖母に連絡を取り
「母の連絡先にかけても出ない」
と言ったところ、すぐに駆けつけてくれ、
上記のように母はすでに
籍を抜いている事実を初めて知りました。
しかし祖母には連絡先を教えていたそうで
(父方の祖母ですが母は仲が良かったので)、
母に経緯を話し帰国してくれました。

弟と妹はまだ小学生で、母は
「混乱させてはいけない」と言い僕にだけ

・籍を抜いていた事(離婚していた事)
を黙ってて申し訳ない
・父はいい父親ではあったが、
いい夫ではなかった(DVされていたらしい)
・いづれ迎えに来るつもりだった
などを伝えられました。

「心配だった。しんでなくてよかった」
など言って泣いてましたが、
『そんな人間に子供任せてた奴がよくも…』
と思ったのを覚えてます。
(事情が事情だけに言いませんでしたが)

しかしまあ大変だったのはこれからで、
家のローンはもちろんのこと、
銀行・消費者金融・●金などなど
あらゆる借金をしてたらしく、家も失いました。

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