私はヤクザの養女になった

四十年以上前の話。
懺悔です。
フェイクは入れない。
関係者はほぼ鬼籍な上、当時6歳の私の記憶なんてたかが知れてる。

母が再婚した。
母の再婚相手Aと私は養子縁組をした。
Aはヤクザだったので、私はヤクザの養女になった。
小学生になったばかりの私は、ヤクザという職業が
どんな物か知らないどころか、その存在すら理解はしていなかったけれど。

Aは私には優しかったし、家に出入りする若い衆達には
「お嬢」と呼ばれて可愛がってもらっていた。
Aは一緒にお酒を飲んだ人とすぐに兄弟になるという
不思議体質で、大量の弟がいて、私には見分けのつかない弟達も皆、
優しくしてくれた。

今考えれば一般的な家庭とは言い難いのだが、当時は分からなかった。
ぼんやりした子供だったのだろう。

後々母が言うには、「娘(私)がいれば狂犬(A)が
ご機嫌な飼い犬になるから、周囲は私をお姫様扱いしていた」そうだ。
かなり幸せな時期だったと思う。

母とAの間に何があったのかは分からないが、
ある日、母は私を連れて家出をした。
正確な日時は覚えていないが、秋だった。
結婚期間半年。
Aは当然若い衆を使って追って来た。
母と私は、関東地方内を転々とした。
私の義務教育より、逃げる事が優先になった。

逃避行が始まってすぐの頃、母は「きゅうちゃん」という男性を頼って匿ってもらっていた。
きゅうちゃんの本名は知らない。年齢も容姿も覚えていない。
私もきゅうちゃんと呼んでいた。

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きゅうちゃんは一人暮らし。
パチと蕎麦屋のお店を持っていた。
私は学校には行かず、蕎麦屋の二階で寝起きしてパチのはじっこで遊んだ。
多分、一週間か二週間くらい。
友達に会えず、いつも遊んでくれるAも若い衆もAの弟達もいなくて、
淋しかったのだと思う。(母は子育てが苦手で、私の為の料理も
お風呂や歯磨きの世話も宿題を見るのもAの担当だった。
考えるとAの女子力が高すぎる)

私はあっという間にきゅうちゃんになついた。
きゅうちゃんの膝で読書したり昼寝したり。正直鬱陶しかったと思う。
でも、彼はすごく温厚な人物らしく、嫌な顔一つしなかった。

きゅうちゃんとの別れは突然だった。
早朝急に起こされ、今から出掛けると母に言われた。
着替えだけして車に乗せられた。
読みかけの本も、塗り絵もまとめる時間がなかった。
きゅうちゃんともさよならだと言われて、私は嫌だと泣き喚いた。
普段文句を言わない私の反乱に困惑する母を見兼ねたのか、
きゅうちゃんが頭を撫でてくれた…ような気がする。
平日、小学校低学年の子供が学校に行かずに号泣していたら、目立つと思う。
きゅうちゃんはそれを考えたのだろう。
一生懸命宥めてくれた。
「ごめんねお嬢。きゅうちゃんはお仕事があるから、一緒に行けないんだ。
でも、また会えるから泣かないで。きゅうちゃんは、お嬢の笑っている顔が好きだから、笑って」
もっといっぱい言ってくれたけれど、一部分しか覚えていない。
私は泣きながら必死で笑顔を作った。
きゅうちゃんは可愛い笑顔だと誉めてくれた。
こんなぐしゃぐしゃの笑顔可愛い訳ないじゃんと思ったけど、
また会えるように指切りげんまんをした。

車に乗っていたのは、途中までだったと思う。
電車、バス、最後は徒歩で、古い感じの旅館に着いた。
母が宿泊できるか聞いているのをボーッと眺めながら、
ここで泊まれなかったらどうしようと思っていた。
いつも寝る時間はとっくに過ぎて、寒くて疲れていた。
朝からほぼ飲まず食わずだったと思う。
旅館に着くまではしっかり歩いていたのに、もう一歩も歩きたくなかった。

幸い泊まる事が出来た。
食欲がなかったので、お風呂に入っただけですぐに休んだ。
少しでも何か食べるように言われけれど、
お茶をちょっと飲んだだけで何も飲み込めなかった。
一人で髪を乾かしている時に、あまりの眠さでドライヤーを落としてしまい、
母に怒られた事を覚えている。

夜中に目を覚ましたら、隣に母がいなかった。
知らない部屋で一人で寝るのは怖かった。
部屋の戸を開け、廊下の隅に母の後ろ姿を見つけ、すごくほっとした。
母の方に歩きかけ、彼女が電話をしている事に気付き、
足音を立てないようにゆっくり静かにに歩いた。
母の口から「きゅうちゃん」というのが聞こえ、
きゅうちゃんに会えるのかと期待しながら声を聞いた。
ちゃんとした言葉は覚えていない。
後ろ向きだったし、すごく小声だった。
単語を繋ぎ合わせて、きゅうちゃんが死んだ事が分かった。
死ぬまで殴られたって。
朝、また会えるって言われて、一生懸命笑って別れた。
でも会えなくなった。
あんなに大好きなきゅうちゃんを、誰がどうして殴ったんだろう。
私はそっと部屋に戻り、布団に潜り込んだ。
あまり涙は出なかった。朝はあんなに泣いたのに。

この時から今まで、きゅうちゃんの名前を口に出した事はない。
母からも聞いた事がない。

今、当時の母の電話を聞けば、多分どういう立場の人がやったのか分かると思う。
多分、母と私を匿った事がバレたのだろう。
彼の死が、どういう扱いになったのか、私は知らない。
撲殺事件になったのか、行方不明になったのか。
本名も年齢も容姿も住所も分からない。
ただ、きゅうちゃんと呼ばれた男性が、
おそらく母と私のせいで殴り殺されたってことだけ。

きゅうちゃん、ごめんなさい。
本当に申し訳なく思います。
きゅうちゃんにも、親兄弟がいたと思う。
どんな思いをしたことか。
ごめんなさい。恩を仇で返してしまった。
私達を助けた事、心から後悔したんじゃないかと思う。
どんなに痛かったか、怖かったか。
そんな目に合わせておいて、私は彼がどこの誰かも知らない。
本当にひどい話だと思う。
ごめんなさい。
許して貰えるなんて、思っていません。
そして、このまま誰にも言わずに地獄まで持って行くと決めています。
泣く資格もない。
ごめんなさい。

一番黒い事を書いてホッとしていました。
その後は、殺された人はいないです。
Aがもしかしたら…という状況なのと、ジサツした方はいますが、
まとめてないので時間がかかります。
それでもよろしければ、普通の奥様になるまでの顛末を
書き込ませていただきます。

前の続きと思って下さい。

母はジャズバーとかでピアノの弾き語りをしながら逃げ回った。
彼女は、ちょっと有名なジャズバンドが日本にいた時にメンバーにスカウトされるくらい、腕の良いピアノ弾きだった。
見た目もかなり良かったから、飛び入りでも歓迎される。楽譜はいらないから身軽に飛び回り、一晩で三軒程回ってチップだけで十万以上稼ぐ。
でも目立つから長居できなかった。
一ヶ所数週間から二ヶ月くらいで次の引っ越し。
知り合いを頼った事も何回もあったけど、最後は大抵、塩撒かれたり疫病神呼ばわりされて終わった。
まあ当たり前なのだが、当時は理解出来なかった。誰も説明してくれなかった。
最初は優しくしてくれた大人が、数週間で睨んでくるようになる。
恐怖だった。

学校に通学できない時期も多かった。
転校の記録から足が付く可能性も大きかったんだろう。
転校手続きの書類無しで通わせて貰った小学校もいくつかある。
教科書もランドセルも、いつもお古を使わせて貰った。

私の逃亡生活は、小三の一学期で終わった。母は親戚の家に私を置いて消えた。
もうすぐ梅雨が明ける頃だったと思う。
大人達の会話から、私は預けられたのではなく、捨てられたと分かった。
私を引き取りたいという人は、いなかった。当然だ。
ヤクザと縁のある、ほとんど学校に行っていない子供。
いつバツ2の母親が転がり込んでくるか分からない。
誰が、時間とお金をかける価値があると思うだろう。
大人達の静かな押し付け合いの結果、とりあえず母が
私を引き取りに来る可能性を考慮して、置き去りにされた家庭で居候する事になった。
もうすぐ夏休みだから、学校は行かなくて良い。夏休み終了しても母親が現れなかったら、
とりあえず近くの小学校に転入させる。
冬休み以降は、また話し合いをする。
夜中のひそひそ話や昼間の電話の声を黙って聞いた。
怒鳴り声のない静かな話し合いの存在を、初めて知った。

勿論母が迎えに来る事はなく、夏休みと二学期を終え、冬休みの話し合いに突入した。
夏の話し合いの時より、私の評価は上がっていた。
休み明けすぐの算数と理科のテストが百点だった事、漢字のテストが学年トップだった事。
大人しくてお手伝いを嫌がらない事、我が儘を言わない事、挨拶がきちんと出来る事、敬語が使える事。
「パンドラの箱を開けたら宝石だった」と言っていた。
私はそのままその家で居候を続ける事になった。

冬休み時点で高まっていた私の評価は、春休みの話し合いでは急降下していた。
成績はトップクラス、行儀も良い。
でも、友達が出来ない。クラスメートに対しても敬語を使う。
教室で孤立している。誰にも馴染もうとしない。喜怒哀楽がない。
話し掛けられなければ口をきかない。無表情。まばたきもほとんどしないから気味が悪い。
もっと沢山あったけれど、繰り返し言っていたのはこんな感じ。
私と接する時間が一番長かったその家のお嫁さんが、
狂ったように叫び立てるので、話し合いは筒抜けだった。
私のせいで、予想よりお嫁さんに嫌な思いをさせていた事に気付き、
申し訳なく思いながらトイレに行くと、お嫁さんと鉢合わせをした。
お嫁さんの負担を和らげたくて、私は笑顔を作った。きゅうちゃんのお墨付きの笑顔。
次いで、まばたきが出来る事をアピールしようと、高速でまばたきをして見せた。
本当に悪気はなかった。安心して欲しかった。良い子だと思って欲しかった。
でも、絶大な逆効果だった。
トイレ前の薄暗がりで笑顔で高速まばたきをする私を見て、彼女は発狂した。
奇声を上げて私に飛び掛かり、首を絞めて来た。
びっくりして、大丈夫、私まばたきできるよアピールを続けたが、視界がだんだん黒くなって、
一度パッと赤くなって、すぐに真っ黒になった。

気が付いたら朝(昼かも)で、布団に寝ていた。
私の母方の祖母の家は医者が多く、その家にも二人(もしかしたら三人)医者がいたので、
必要な医療措置は受けていたと思う。
春休み中の引っ越し・転校が決まっていた。
お嫁さんは入院したらしい。
私は声が出なくなっていた。話そうとすると喉がひきつって息が上手く出来なかった。

春休みからの引き取り先は老夫婦で、子供世代は全員海外にいて、孫には滅多に会えない、という事だった。
優しそうな人達だったが、どうでも良かった。
私の人間関係は、一旦受け入れられて憎まれて引っ越しというのがデフォルトだった。
お嫁さんも、最初はすごく優しかった。
髪をとかしてリボンを結んでくれたし、公園に連れて行ってくれた。
ずっと優しくして欲しかったけれど、それは経験上無理だと分かっていた。
もし私がもう少し子供らしい子供だったら、何とかなったのではないかと思う。
でも私は、話し掛けられると敬語で言葉少なく返し、相手の次の言葉を待ってじっと見つめ返すような子供だった。
順調にお嫁さんのヘイトを稼いでいるのを感じても、どうすれば良いのか分からない。
家の空気はぎすぎすしてきたが、叩かれる事も罵られる事もなかったのでまだ大丈夫、
と思っているうちに、お嫁さんは狂ってしまった。
そしていつも通り引っ越しになった。

老夫婦の家は、居間に本棚があった。二階に続く階段の途中にも、小さな本棚。書斎にも大きな本棚。
子供用の本はない。構わなかった。
小二で与謝野晶子訳の源氏物語を読んだと言えば、分かって貰えるだろうか。
本は私の命。
読んだ物全てを理解出来る訳ではないが、私にとって異世界への扉だった。

Aの家にいた頃は、ちゃんと子供らしい本を読んでいた。
赤毛のアン、ムーミンシリーズ、スプーンおばさん、メリー・ポピンズ、
長靴下のピッピ等、Aチョイスの本。分からない漢字の為の漢和辞典と
国語辞典の使い方を教えてくれたのもA。
私の親戚には全く伝わらないが、Aは良い親だったと思う。ヤクザだけど。

逃亡生活に入ると、嵩張る子供用の本は読まなくなった。文庫本なら、
上手くいけば五冊くらいを荷物に紛れ込ませる事が出来る。

時々学校に行って、仲良くしてくれるクラスメートがいても「ごめんね。
ママが遊んじゃダメだって」と断られたり、遊ぶ約束をしても
私が引っ越しでブッチしたり、人間相手は無理が多い。
本は大丈夫。本は文句言わないから。

という訳で、本だらけの老夫婦宅は天国だった。
自由に読んで良いよと言ってくれたおじいちゃんが神様に見えた。

声を出せないまま、四年生の一学期から新しい学校に移った。
どうせ孤立するのだから、不自由はない。
ずっと読書していれば良い。
そう思っていたのだが、この見通しは良い意味で裏切られた。
最初は「声が出ないなんて仮病だ」と絡んできた男子がいたが、
喋ろうとして息が詰まって倒れる私を見て女子が守ってくれるようになった。
明らかなハンディキャップがあると、多少奇妙な行動を取っても
「自分たちとは違うからそうなるんだ」となんとなく納得してしまうのかもしれない。
声がなければ口調も分からないし。
理由ははっきりしないが、私は障害のある少し変わった子という、
それまでとは違う括りでクラスに受け入れられた。
テストの点数についても、受け取られ方が違った。
ガリ勉・生意気・良い子ちゃんぶる嫌な奴から、頭の良い一生懸命な子になった。
いつ手のひら返しが来るのかが怖くて、学校に行きたくなかった。
でも、学校に行かない問題児として家を追い出されるのも怖くて、登校拒否は出来なかった。

多分梅雨の頃、書斎で懐かしい本を見つけた。
きゅうちゃんの家に置いて来た、ファラデーの「ロウソクの科学」。
何か叫んだような気がするけれど、ちゃんと声が出ていなかったかも。

気が付くと病院のベッドで、額の左の辺りに大きなガーゼが貼ってあった。
書斎で転んでおでこをぶつけた、らしい。
おじいちゃんに
「本を持っていたから、転んだ時に手を使えなかったんだ。転ぶ時は、本より自分を守りなさい」
と言われた。
怒られるかと思ったけれど、怒られなかった。
本がどこにあるのか聞きたかったが、手段がなくて歯痒かった。

声が出ないというだけではなく、筆談も難しかった。
文字は普通に書ける。文章を書き写す事も出来る。テストの答案も書けて、クロスワードも出来る。
なのに、自分の思っている事を書けない。質問に答えようとすると、汗が出て震えて文字にならない。
自分の手が別の生き物になったようだった。

話せないという事は、話さなくて済むという事。
当時の私にはメリットが多いくらいだったが、この時初めて話したいと思った。
「ロウソクの科学」が欲しかった。
ドラマのように奇跡的に声が出る訳もなく、頭を打っているからと一日入院後、普通に帰宅した。

帰って即、書斎に行った。
おじいちゃんもおばあちゃんも、びっくりしていた。
いつもは靴を揃え、おじいちゃんおばあちゃんに頭を下げ、手を洗って音を立てないように居間に入るのに、靴を脱ぎ散らかして書斎に直行したらしい。
「ロウソクの科学」は、元の場所にあった。
今度は何も起こらずに、手に取る事が出来た。
おじいちゃんもおばあちゃんも、書斎に入って来た。
「その本、好きなの?」
どちらに聞かれたのか、覚えていない。
何回も頷いた。
「子供向きの本じゃないと思うけど?」
正直、あの家に子供向きの本なんてなかった。
ドストエフスキーとかヘッセとか辻邦夫とかロレンスとか。
勿論、読んだけれど。
ロウソクの科学は読みやすい。
小一でも分かるように書かれた良書だと思う。
「じゃあその本はあげる。いつも頑張っているご褒美」
嬉しくて泣いた。
この時の気持ちを、どう伝えれば良いだろう。
いつも幕を一枚隔てたような世界、ホラー映画を見ているような、
薄墨がかかったような世界が、輝いて見えた。

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本を貰っても声は戻らず、夏休みになった。
四年生にして初めて、夏休みの宿題という物の実態を知った。
びっくりした。休みじゃないのかよ、と思った。
ドリルなんて、やってもやらなくてもテストに影響すると思えない。
漢字を覚えるのに書き取りが必要って、誰が決めたんだろう?植物なんか
育てたい人が育てれば良いし、私は眺めるだけで満足だ。

宿題は大体七月中に終わったけれど、読書感想文は苦労した。
自分の言葉は難しい。
何度も投げ出そうとして、挫折仕掛けて、
その度にロウソクの科学を抱きしめて、三週間かけて二枚と一行を書き上げた。
二学期に少々誇らしい気持ちで提出したのだが、後日おじいちゃんに、
次から感想文を書く時は事前に本の題名を教えて欲しいと言われた。
「チャタレイ婦人の恋人」は、教師に不評だったようだ。

クラスで手のひら返しが起きず、おじいちゃんおばあちゃんもずっと優しい中、
少しずつ声が出るようになって行った。
小さい声で、かすれたりひっくり返ったり途切れたりしながら、
十月か十一月くらいにおはよう、ありがとう、バイバイ等が言えるようになった。
何事もなく五年生の四月、小声だが敬語を使わないで会話が出来るようになった。

五月、おじいちゃんが心筋梗塞で亡くなって、おばあちゃんはアメリカの息子さんの所に行く事になった。

私の次の保護者を決める話し合いで、私の実父の名前が上がった。
父は三回目の結婚をし、妻と娘の三人暮らし。
父とその妻は、元々一緒に暮らしたかった、歓迎すると言ってくれて、
引っ越しはスムーズに決まった。
ここで、私の母方の祖母が出て来た。
経済的な理由で私を引き取らないでいたが、彼女は私の父を憎んでいた。
父に渡すくらいなら自分が引き取ると、強引に私を連れ出した。
着替えとロウソクの科学だけ持って、馴染み始めたクラスに挨拶無しで引っ越した。
直接祖父母の家に向かわず、十日程児童養護施設に預けられた。
理由は知らない。この期間は学校には行かなかった。
施設には学校に行っていない子が他にもいて、短い間だったが仲良くなった。
私を入れて四人グループで固まっていた。
この後も時々手紙のやり取りをしていたけれど、
十代後半から二十代前半で皆亡くなり、私だけ生きている。

母方の祖父母との生活が始まった。
母が最初の離婚をしてからAと再婚するまで、祖父母と母と私とで暮らしていた。
祖母は実父に良く似た私の顔が嫌いで、いつも不細工、駄目な顔と言っていた。
なので、あまり好きではなかった。
祖父で印象に残っているのは、手紙だ。
Aと暮らしていた時に何度か祖父から手紙を貰った。
内容はごく普通。季節の挨拶、元気か、不自由はしていないか、勉強を頑張って健やかに過ごすように。
問題は文体。漢字てんこ盛りの容赦のない候文。
もう一度言わせて。
小学校一年生に候文。
今なら相手選べやと反撃する。
当時はAを頼った。
Aは英語やドイツ語じゃなくて良かったと言いながら一緒に解析してくれた。
三通目くらいから一人で読めるようになったが、やっぱりあの手紙はおかしかったと思う。

五年生の五月に最後の転校。祖父母との生活が始まった。
祖父母は毎日くだらない事で怒鳴り合い、祖父は自室に引きこもり、祖母は私に当たった。
定規で叩かれ、煙草の火を押し付けられるのも辛かったが、
一番嫌だったのはトイレ掃除用の雑巾で顔を拭かれたり、それを口に突っ込まれる事だった。
熱湯をかける真似、揚げ油をかける真似もされた。重大な跡が残る事は何もされなかった。
私はまあまあ運が良くて、酷い虐待はなかった。お陰で今も後遺症が何もない。
祖母は決して汚い言葉を使わない人で、私を詰る時も
「あなたはあまり笑わない方が良いわよ。笑うと獣のように見えてしまうわ」という感じだった。

六年生の時、母が帰って来た。何事もなかったかのように帰って来て、何事もなかったかのように一緒に暮らし始めた。
祖母に詰られる標的が増えて負担が減ったが、母は家出を繰り返すようになった。
数日家にいても、予告なく数週間いなくなる。母は、祖母と一緒にいるのが嫌だから帰らないのだと言っていた。
家出する前に別居すれば問題ないのに、と思った。
「まあ、また捨てられたの?」
と言われるのが悔しかった。

そのまま中学生になった。
中学を卒業したら、就職するつもりだった。
働いて、家から出たかった。
ここで、私の成績が問題になった。
教師も祖父母も母も、この成績で中卒で就職させるのはもったいない。進学すべきだという。
私は母と交渉した。母と二人でアパートを借りて、祖父母と別居する。その代わり、私は進学する。
家事は私が担当する。出来るだけ母に迷惑をかけない。
母は受け入れてくれた。

弾き語りの仕事は流行らなくなり、母は大型トラックの運転手になっていた。
(最初普通二種を取ってタクシーをやっていたが、
客も同僚もホテルに誘って来るからと大型を取ってトラックにしたらしい)

私が中三の二学期から、母はアパートを借りて自活を始めた。
私は中学卒業後に母のアパートに引っ越した。

高校に入学してすぐは順調だった。
祖父母のいない生活は快適だった。
薬用リップを使うと「まあ、色気付くのが早いのね」、ポニーテールにすると
「ああ、うなじを見せて誘うのね。でも、顔を見せたらがっかりされるかもしれないわ」等という言葉を
聞かないで良いって、幸せだと思った。
母とも上手くいっていた、と思う。

でも、母は次第に帰って来なくなった。
最初は本当に三日に一度は帰っていた。
すぐに五日に一度になり一週間に一度、半月に一度、一ヶ月に一度。
朝、私が通学の為に家を出る直前に帰って来て挨拶する。
「お帰りなさい、お仕事大変なの?お疲れ様」
「ただいま、今から学校?急がないと遅刻しちゃうよ。行ってらっしゃい」
「今日はゆっくり出来る?久し振りに夕飯一緒にどうかな?お母さんの好きな物作るよ」
「うーん、どうかな。考えとく」
私が帰宅すると、もういない。
授業料無料の特待生で私立高校に入ったので、無駄に遅刻も欠席も出来ない。
母と話したいと思っても、機会がなかった。高校最初の夏休みは、
一度も帰って来なかった。
高二の四月を最後に、母は帰って来なくなった。

私は一人でアパート暮らしを維持出来ないか、かなり足掻いた。
それなりのマンモス高校で、学年で十位以内の成績を保ちつつ全ての生活費を稼ぐのは、どう計算しても無理だった。
売春をすれば、お金は入る。
一時間五万~十万。
勇気がなかった。
母が置いて行った生活費は、すぐに底をついた。
夏休みの終わり、
「こんなに何回も捨てられるなんて、余程いらない子なのねぇ。その顔では仕方がないわ」
と言われつつ、祖父母の家に出戻った。
この時、小三の夏休みくらいから私を引き取ってくれていた家の
「お嫁さん」がジサツした事を知った。彼女はトイレに行こうとするとパニックになり、
洩らしてしまうというのを繰り返していたらしい。笑顔の高速まばたきが忘れられなかったのかもしれない。
病室に簡易便器を置いて徐々に心を安定させ、家に外泊できるまでになった。
数年、入院生活しながら外泊を繰り返し、そろそろ退院で、その前の最後の外泊中に首を吊ったそうだ。
「皆に愛されたお嫁さん」と「不幸を振り撒く私」について、祖母が色々言っていた。
何度か謝罪の手紙を送ったが、返事は来なかった。

夏休み明けのテストでガクンと順位が落ちた。三位か四位だったのが、
一気に十位だったので、夏休み中に良くない仲間が出来たのかと保護者込みで生徒指導の先生に呼び出された。
祖母は教師に鷹揚に頭を下げ、「引っ越しで環境が変わってしまったからだと思います。
これからは私がサポート致しますから大丈夫ですわ」と微笑んだ。
勿論帰宅後は「顔も悪い、愛想も悪い、頭も悪いなんて、困るわ。
だから捨てられてしまうのよ。少しでも長所があれば良いのに、可哀想な子ね」と言われた。
翌日教師に「上品なおばあ様だなぁ。あんな人に心配かけないようにしなさい」と言われた。

因みに、私は塾に行った事はない。三位・四位の成績は、一日三十分(テスト前は一時間)の自宅学習で維持出来た。
瞬間記憶能力的な物はない。多分、記憶力はごく普通。数学の公式とか、
忘れる事が多かったくらい。勉強には、コツがあるからね。

順位は、三学期には戻った。
進路希望は就職だったが、教師が強く進学を推して来た。学校の実績にもなるからと。
上品なおばあ様に金銭的負担をかけたくないから就職したいと言ったが、奨学金を利用すれば良いと言われた。

結局家から百キロ近く離れた大学に進学した。大学入学を、こっそりAに報告した。
Aとの養子縁組は解消されていたが、Aはまた一緒に暮らそうと言った。
私は、優しいAしか知らない。誘いは嬉しかった。
でも、ヤクザとは暮らせない、とはっきり断った。
Aは、分かっている、足を洗う準備を進めている、駄目だろうか、と言った。
私の結婚式で、花嫁の父としてバージンロードを歩くのが夢だと。
嬉しくて、涙が出た。
お願いします、本当はまたお父さんと呼びたいですと返した。
夏休み前に、Aの実弟からAが事故で亡くなったと連絡が来た。歩道で転んで、車道に倒れ込んだそうだ。
本当に事故かもしれない。でも、もしかしたら、違うかもしれない。
ヤクザを辞めるのは、難しいだろうか。ダイガシって、やっぱり幹部なのだろうか。
辞めるのが本当に死ぬ程難しいのなら、一緒に暮らしたいなんて言わなかったのに。

大学に入ってから、一度も祖父母の家に戻らなかった。
奨学金とアルバイトで全ての費用を賄い、国家公務員になった。

四年生の時、教授の論文発表を聴きに行った。教授の一つ前の発表者の声を聴いて、私は恋に落ちた。
英語使用の発表で、教授より発音がスムーズで、柔らかい声だった。

発表終了後、私は彼に内容についての質問をしに行った。
英語が苦手なので、質疑応答の時に聞けなかったから、と。勿論、論文より彼Bが目当てだった。
Bは見た目も私のドストライクだった。小柄で私との身長差は五cmくらい。
野球の古田敦也さんに山羊を混ぜて線を極限まで細くした感じの顔。
初夜の生活は、彼にしようと決めた。
きっちり仕留めた。

就職後にプロポーズもされて、本当に幸せだった。
Bの両親に紹介されて数週間後、Bの父親に呼び出された。
私の素行調査をした、実家の祖母にも詳しく話を聞いた、Bと別れて欲しい。
そんなこと出来る訳がない。
確かに私の過去には瑕疵がある、でも現在の私には問題行動はなく、
真面目な学生生活を送り、信用のある仕事についた。これからも努力致しますから、認めて頂く訳には参りませんか?
B父は、手切れ金を持って来ていた。
「あなたがどんなに良いお嬢さんでも、過去は変わりません。ご実家がいつ、どんな形で関わって来るか、予想出来ますか?
ここに五百万あります。奨学金返済の足しになるでしょう」
過去って、追いかけて来るものだったんだ、と思った。
お金は受け取らずに帰った。
Bは親に愛されているんだなと思った。
すぐにBから連絡が来た。
何年かかっても説得しよう、我慢出来なくなったら承諾無しで籍を入れよう、となった。

それからすぐ、Bが癌になった。手術で病巣は全て摘出された。半年も経たずに再発した。
再発した時、私は入籍を迫った。何かあった時、側にいる義務が欲しかった。
ごめんね、と言われた。君の戸籍を汚したくないと。
一緒に逝きたいと迫ったら、出会って初めてBが怒った。
Bは九ヶ月も頑張って、私が出張している間に逝った。
出張から帰ったその足で病院に行ったら、もう葬儀も済んでいるはずだと言われた。
Bの実家に行ったが、お墓の場所も教えて貰えなかった。
あなたはやっぱり疫病神だと言われた。
そうかも、と思った。

しばらく、家と職場の往復のみの生活になった。
ある日、職場で立ち上がれなくなった。
四十度の発熱だった。全然気付かなくて、普通に仕事していた。
上司が病院に付き添ってくれて、念のため入院になった。
ぽっかりと時間が空いてしまった。
生きて行くのって辛いなぁと、初めて感じた。そして、私って結構余裕じゃんと思った。
人生の感想なんて余裕がないと考えられない。
そう思ったら、急に涙が出た。Bがいなくなって初めて泣いた。
Bが生きているうちに、ありがとうを言えば良かった。
置いて行かないでとしがみつくばかりで、Bの気持ちを考えなかった。
Bはいつもごめんねと謝っていた。最後に会った日も、そんな感じだった。
私は求めるばかりだった。きゅうちゃんの時みたいに、無理矢理でも笑って、安心させるべきだった。
もうすぐ死ぬって分かっていたんだから。
病院のベッドで、号泣した。同室の人が、大丈夫そんなに大した病気じゃないわよと慰めてくれた。
過労による体調不良との診断で、少し休暇を貰ったので、Aのお墓参りをした。
Aのお墓の前で、Bの分も手を合わせた。

二十代半ばで、Cと出会った。
マリンスポーツが趣味の、ちょっと見ないくらいのイケメン。
私の友人は、女優の○○にそっくりと言って騒いでいた。
私はほぼテレビを見ないので性格な名前は思い出せないが
「あなだりえ」か「はただりえ」みたいな名前だったと思う。「りえ」じゃなくて「みえ」かも。
ちょっと見せて貰ったけど、凄く似ていた。
このCに滅茶苦茶口説かれ、根負けして付き合うようになった。
デートの度にプロポーズされた。
私はもう結婚する気がなかったので、のらりくらりとかわしていた。
ある日Cは、自分の味方を増やそうと思ったらしく、デート場所にいきなり自分の実家を選んだ。
え、それってどうなの?と思いつつどうしようもなくC実家に行き、
そこで心からの歓迎を受けた。C父は少し怒りっぽいが大声で笑う人。C母は明るく優しい美女だった。
Cとの結婚に反対されるどころか、いつでもOKと言われた。
私は母親が行方不明な事、戻ったら何らかのトラブルが予想される事、
以前結婚前提で付き合っていた男性の親に、素行調査の結果から
結婚を反対された事を話した。Aについては、なかった事にした。
調査が入ればバレるかもしれないが、この先A関連のトラブルはないと思ったから。

C父は一瞬も躊躇わずに「Cと結婚してやってくれ」と言った。

それからもCは会う度にプロポーズしてきた。私はとうとう答えっぽい物を出した。
Cの事は、ちゃんと好き。
でも、私は相手が誰でも結婚はしたくない。
結婚したいなら、別の人を選んで欲しい。その場合、相手を探す前に教えてくれれば、私は一切文句は言わない。
Cは「私ちゃんだから結婚したいんだよ。結婚が目的じゃないんだよ」
と言った。傷ついている事がわかった。
悪い事したな、とは思ったけれど、はっきりしておいた方が良い。
「私ちゃん、妊娠したらどうするつもり?俺達、避妊してないよね」
「うーん、妊娠したら…結婚しようかなぁ」
「マジで?俺、頑張る」
私は実は、かなり妊娠しにくい方で、自然妊娠の確率は一応ゼロではないよ、という程度。
元々子供は好きではないし、丁度良い。
私にぴったりな体質だと思った。
結婚は、Cとしたくないのではなく、結婚願望が燃え尽きてしまっていた。

数ヵ月後、私はCとデキ婚した。
人間、やれば出来るんだなと思った。

今、結婚して二十数年。
何の覚悟もなく結婚して子供が生まれた。
避妊は一度もしていないが、妊娠は一度だけ。
息子は奇跡の子だと思う。
Cと私はアラフィフにもなって、互いを私ちゃん、Cちゃんと呼ぶ。
おいしい物、楽しい事はシェアして、不満は出来る限り早目に吐き出すようにしている。
息子は国家公務員になった。Cそっくりのキレイな顔立ちと、私譲りの少し華奢な体格。
彼は、自分が「出来ちゃった」子供だと知っている。
少々びっくりしていたけれど「あなたもやれば出来るかも」と囁いたらお茶吹いてた。
嘘みたいに平穏で幸せだと思う。
いつどんなどんでん返しが来るのか、正直怖くて仕方がない。
壊れる前に壊してしまいたいといつも思っている。
この気持ちは、機能不全家庭出身の人なら理解できると思う。
Cはわからないらしい。

とりあえず、今、私は奥様です。

母のその後は…興味のある方はいないかと存知ますので、まとめておりません。

以上です。
冗長な話にお付き合い頂き、感謝致します。
ありがとうございました。

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