震災で旦那「子供なんかより親が大事!女なんかいらん!」

やっと親権も手に入り元義実家全員と
縁が切れた記念に初書き込みです。
私が嫁いだのは今回の震災で大被害のあった土地。
私は関東出身で、義実家は結婚に反対だったが、
私があの土地でナースとして働きだしたら
手のひらを返したように結婚を認めると
上から目線で言って来た。

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その頃私はエネだったから、
義実家が二世帯住居にするにあたり費用が
足りないからと旦那がほぼ全費用ローンを組まされ、
義両親と義妹が一銭も出さないことを
疑問に持たなかった。
旦那の給料はほぼローンで消えるので
私がナースとして夜勤ありのきつい仕事に
転職することになった。

そんなときに私の妊娠が分かった。
おろせおろせと義実家はしつこく迫り、
私はこれだけは譲らない。
産休が取れるから給料は少し減るけど
その分貯金でまかなうと無理やり産んだ。

女の子でごくつぶしを産んで役に立たないと
全員に非難されて、これ以上逆らうなら
離婚だと離婚届にサインさせられた。
義両親が保証人になり、気に入らないことがあったら
提出するからと言われた。
旦那は空気で両親の言いなり。
でも子供は可愛がってくれたからまだ我慢して

そんな時にあの震災。

旦那は夜勤明けで家にいた。
旦那は母屋にすぐ様子を見に行った。
それから逃げろー逃げろ―の声で近所も
逃げ出し始めていた。

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母屋に旦那を追っかけて自分は産後に
思いっきり走れない。
この子を抱いて逃げてと言ったら、
旦那は

「子供なんかより親が大事!女なんかいらん!」

と義母と義父を連れて車で逃げた。
私と赤ん坊はおいてきぼり。
ぼーぜんとしていたら近所のおばさんが、
こんな時は車より足!と言って高台の方に
一緒に逃げてくれた。
津波は私達が逃げた高台のすぐ下まで来た。
あの恐怖はいまだにうなされるほどだ。

その高台で一晩すごしなんとか皆の好意で
赤ん坊と避難所までたどり着いた。
寒いしおむつはないしで本当に大変だったが、
皆の好意で古着を破いておむつにしてくれたり
優先的に食べ物を回してくれて
他人の方が神様みたいだった。

数日後家のあったところに行ったら、
家はなんにも無くなっていた。
それでも少し残っているものがあったので、
掘り返していたら義両親が使っていた金庫があり、
中がすでに出されていたので義両親が
出したんだろうなと思って中を良く見たら
離婚届が残っていた。

なんだが目の前がぱーと明るくなり、
避難所の人に頼み両親に連絡を取ってもらい
迎えに来て貰った。

近所のおばさんと面倒を見てくれた
人達によくよくお礼を言って
両親がもってきた支援物資を渡して
実家に帰った。
 
すぐ両親に弁護士を手配してもらい離婚協議になった。 
いい忘れたけど義両親も旦那も義妹もみんな助かった。 
避難所が違ったのでわかるのに
しばらくかかったけど、わかっても
そちらに行きたくなかったので行かなかった。 
義両親は私が離婚を望むとは思ってないみたいで、
赤ん坊を実家に預けて仮設に戻って来て働けと高飛車だった。 
 
でも近所のおばさんが私と赤ん坊を
旦那が置いてきぼりにしたことを証言してくれ、
すでに記入済みの離婚届もあったことから
裁判でも親権を取れ問題なく離婚できた。
何しろ混乱していたから
すごく時間はかかったけど。
 
あちらは慰謝料よこせと喚いていたけど、
私の方が微々たる額だけど貰うことになった。
多分支払われないと思うけど。
流れてしまった家のローンがあるし職も無くなったし、
いじわる義妹の職も無くなったしね。
 
新聞読んでいると美談ばっかりだけど、
こんなこともあったんだと言いたくて書き込みました。 
避難所の人たちは本当に良い人たちで、
近所のおばさんも普段から私がいびられているのを
可哀そうに思っていてくれて、
逃げるときに声を掛けてくれたそうだ。
 
来年すぐに娘を保育所にいれナースに復帰します。 
病院の中の保育所なので昼に授乳に行けますし恵まれてます。
資格取っておけと言った両親に感謝です。 
 
実家は関東の端です。
地震・津波での被害はありませんでした。 
実は産まれたばかりの赤ん坊を連れて居るからと、
避難所の人達が役所や自衛隊に掛け合ってくて
内陸まで車で送って貰いそこで両親と落ち合いました。 
 
元義両親は働いてません。
自営だったのですが私達が同居したら
辞めてしまいました。
義両親の生活費も旦那の給料から出してました。 
義妹は働いてましたが、一銭も入れてませんでした。
 

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