離婚して二ヶ月…最近になり、娘から人伝に連絡が届くようになりました。
主人との復縁を願うものや、日々生活に不便をしていること、
そして姑や主人がとても厳しく当たるので辛い…といった内容です。
離婚に到った経緯は姑の嫁イビリの域を超えたボウリョクと、
主人そして娘からのボウリョクでした。
結婚後すぐに主人の実家にて同居になりましたが、
その日から私に人としての生活などはなく、
本当に日々奴隷のような生活でした。
食事を作っては捨てられ、私は食卓に付くことすら
許されず台所で残り物を食べていました。
掃除も洗濯も全ては姑の機嫌次第で、滅茶苦茶にされました。
最初こそ主人は助けてくれましたが、
次第に姑と共に私に辛く当たり始め、いつからかボウリョクまで。
ハエタタキや箒や長い竹の物差しなど、
道具はさまざまでした。アイロン台やアイロン本体で
なぐられた事も何度もあります。
逃げてしまえばよかったのにどうしても逃げる事が出来ず、
次第に逃げるという考えすら持てなくなりました。
そしてずるずると結婚生活という名前の奴隷となっておりました。
本当に奴隷だったと思います。
共働きで得た給料は全て取り上げられ、
服を買うにも主人や姑に三時間は土下座をしなければ、
肌着の一枚すら購入を許されませんでした。
風邪を引いても休む事は許されず、
毎日、朝食と弁当の用意に、洗濯をし干して
掃除機をかけてから仕事に行き帰宅してからは、
夕食を用意し風呂を沸かし…一息すらつく間もなくあくせく働き、
姑より先に寝ることも許されなかったので、
姑が寝た後午前1時にやっと寝室へ入れました。
翌朝は四時起床です。
それでも娘が生まれてからは、
姑も優しくなり主人も穏やかになり、こ
れでやっと幸せになれると思ったのですが、
その幸せも束の間でした。
娘が物心付く頃には、ボウリョクが再開。
最愛の娘も姑に取られ再び奴隷生活がやってきました。
それでも娘にはとても優しかったので、
娘のためと思って耐えていたのですが、
それも全て間違いでした。
強請られれば何でも買い与え、
無条件に甘やかす姑と主人にのみ娘は懐き、成長していくにつれ、
とうとう娘も「あれ」「これ」「それ」と、
姑や主人そっくりに私を呼ぶようになったのです。
その時の絶望はこの先も忘れられないでしょう。
娘からもボウリョクを受けるようになるまで、
一ヶ月もありませんでした。
それでもいつか分かってくれると信じ、
そこから二年耐えました。娘は高校生になりました。
「高校入学おめでとう」と、娘の部屋に語りかけたそのすぐ後、
私の記憶はありません。
気がついたら私は病院のベッドの上でした。
階段から落ちたと聞かされたのですが、
娘に突き落とされたと知りました。
薬でうとうとしている私の傍で、
姑と娘が笑いながら話しているのを聞いたのです。
「タヒねば保険金でハワイにいけたのにね」
この台詞も忘れられません。
そこからは流石に私の目も覚め、
離婚へ動き始めました。私の身体にある無数の傷を、
医師が不審に思いDVとして通報してくださったので、
話は早かったと思われます。
そこから人を挟んで離婚へと運んでもらいました。
協議中一度娘と話をしたのですが、
「離婚なんてみっともない真似をしないで恥さらし」や
「身勝手だと思わないの」と、
私を非難するばかりで、娘への愛情も枯渇したように思います。
娘の親権も取ろうとすら思えませんでした。
娘の養育費を引いた分の慰謝料を取り離婚し、
私の実家は既に弟夫婦のみの家ですので、
一人遠い地へ逃げ出したのが二ヶ月前。
その前に弟同伴で必要最低限の荷物だけを取りに戻り、
家を出た瞬間、熱いヤカンが私へと飛んできました。
投げたのは娘でした。慰謝料を取り、
離婚しこの家を捨てる私へ向かって、
姑そっくりに顔を歪め「守銭奴ババァはタヒね」
と叫んでおりました。
そこから二ヶ月。私がいなくなり、
家事をする人間がいなくなり、
今まで丸ごと入っていた私の給料もなくなり、
色々な意味で不便になったのでしょう。
姑は家事が嫌い、主人も家事は女がするものと
思っている人でしたので、それは当然娘に向かっているのでしょうね。
娘は米も炊けません。家事を教えようとした頃には、
既に姑べったりで、姑といっしょに私を物差しでなぐって
あざ笑っていました。
「美味しいご飯が食べたい」「お母さんのご飯が大好き」…
そんな手紙を寄越してきました。お母さんなんて呼ばれたのは、
果たして何年ぶりでしょうか。
あの家に戻る気はありません。
娘への手紙に返信をする気もありません。
母親が恋しいのではなく、何でも言えば出てきて
我慢する必要のない、私からすれば姫のような
生活をしていたあの頃に戻りたいだけなのでしょう。
そのためには奴隷が必要ですからね。
生まれたときはとても嬉しかった。
あんなに愛おしいと思っていたのに、今ではもう、
ひとかけらの情すらもありません。
助けて欲しいという娘のSOSに、
哀れと思うよりも、思い知れと思ってしまいます。
私は酷い母親かもしれません。
昔はあんなにもあの子の母親となりたかった。
でも、今は私は母親でなく人間になりたい。
娘からの連絡を伝えてくれた人にそういうと、
泣いてくれました。
逃げ切って欲しいと言ってくれました。
そのつもりです。
もう二度と関わりたくないのです。
ですが…同時に逃げていいのかと戸惑っている自分がいます。
どうしていいのか分からなくなってきて、ついつい吐き出しに参りました。
少しですがすっきりし落ち着きました。
娘からの手紙には、
謝罪の一言もありませんでした。
切々と自分の状況を連ねているのに、
私へした仕打ちへの謝罪は、「ごめん」の一言すらありません。
これ見て、迷いを断ち切れたように思えます。
最近漸く、ご飯が美味しいと思えるようになってきたのです。
このまま人並みの生活をし、
ゆっくり過ごそうと思います。ありがとうございました
子供が出来たとき、迷いもあったのです。
ですが、子供が出来れば主人も姑も変わってくれると、
幻想を抱いてしまいました。
あの時逃げていればこんなことにはならなかったかもしれませんね…。
あの環境下で育ててしまったこと、
娘の人格を歪めてしまった事は、後悔してもしきれません。
かといって此方から何かする気力も、
今はもうありませんが…。